一章十節 埼玉ピアノ音楽祭(三)

文字数 3,095文字

「すいません。お待たせしました」
 閉演から少し時間が経っていたのもあってか、幸いにも室内はそこまで込み合ってはいなかった。
「全然! それじゃ、私たちも部屋に帰りましょうか~」
 すっかり目元を整えた先輩と並んで、先程より幾分人の減ったロビーを通りかける。と、丁度その時だ。
「んんっ、あれ?……えっ、まさか――」
 入口手前、シュロチクの植木を背に、談笑している学生の群れが目に入る。その中の一人。少し退屈そうにしながらも、必死に周りに笑みを振りまいている、絹のような黒髪をたなびかせた女性。
 私は思わず、食い入るようにその相手を凝視した。間違いない。少し垢抜けたとはいえ、温室育ちで養われた、純朴そうなその顔立ちは相変わらずだ。
「えっと、もしかして……森下鏡子ちゃん?」
 そっと近寄り声をかけた途端、彼女は不思議そうにこちらに目を向けた。だが私の顔を認識するや否や、彼女の眼はみるみると見開き、
「おっ、小川さん……なんでこんなところに……あぁ、そういうことか。やっぱりあなたも――」
 彼女の一瞬の驚愕と、同時に憐みの笑みを称えた表情を確認すると、私は急いで大内先輩に「知人がいたものですから、すみませんが少し挨拶してから戻ります」と頭を下げた。
 それは彼女も同様で、集団の一人に声をかけると、いそいそと私の下へと近寄った。
「小川さん、まだピアノやってたんだね。正直、稲穂のコンサートのトリで満足する性だと思ってた」
 彼女の慈悲とも皮肉ともつかない一言に、私はあっちで少し話そっかと、人気の無い外庭を指差した。
 私たちは互いに無言のまま、ロビーから立ち去った。折しも、玄関口では先程の演奏者の一人のインタビューが開始され、そのフラッシュから逃れるように、薄暗かりの空間へと急いた。

 外庭へと出ると、ちらほら夕涼みに興じている人の姿は見受けられたが、館内を覆っていた人いきれからは解放され、随分と心地良かった。
 私は、ホール間近の空いていたウッドチェアに、彼女共々腰掛ける。
「まさか埼玉の山奥で同郷の〝同期〟と出会えるなんて。世間は広いようで狭いじゃないけど、本当びっくりだよ」 
 私たちの視線を向ける、木立の真上には、丁度真っ赤な夕陽がその生を終えようとしていた。悲し気に奏でるヒグラシの鳴く音。あぁ、やっぱりこんな場所でも、私は故郷と向き合わなければならないのか。
「あの夕陽なんか見ると、地元の蔵王の麓を思い出すんだよね。学校帰り、和田先生のレッスンで心を挫かれても、帰宅後の練習に気分が落込んでいても。いつも麓を照らす夕陽は、燃えるように美しく輝いていた」
 私の咄嗟に出た呟きに、彼女は真意を測りかねるように首を傾げた。森下さんは豊橋の人だったから、わかんないよね。私は彼女の態度も気にせず一呼吸置き、
「そうだよ。私も高校卒業後も、夢を追い続けて、東京の音大でピアノを続けている。森下さんもそうだよね? やっぱり桐朋のピアノ科なの?」
 森下さんは、高二の春、親の薦めで東京の有名音楽高校へと転学を果たした。以来、私との関係は全く途絶え、高校卒業前に和田門下主催のコンサート開催のLINEを入れた際も、彼女から返信がくることは無かった。
 私の言葉に、彼女は少し影を落としながら、こくんと頷く。ごめんね、これまで連絡を返さなくって。そう平謝りをしながら彼女は、高校時代からは想像もつかない、実に憂いを帯びた表情を湛え、
「言い訳するわけじゃないけど……私過去との繋がりを、意図的に絶っていたとは違うからね。正直、和田先生の卒業コンサートも凄く行きたかった……でも、あの頃の私は東京の学校に慣れるのと、周りの同級生とレッスンに食らいつくのに必死で。正直、過去に意識を向ける程の余裕は、とても無かった」
 地元での、常に挫折を知らないご令嬢としての姿はそこには無く、目前の音楽に苦悩する一人の女性は、なんともいたいけでかつ、正直新鮮ですらあった。
「そうなんだ。でも……その言葉を聞けただけでも安心したかな! だって私もこの数か月で、東京の音大生の質の高さに、本当舌を巻いてるよ。おかげで、毎日ピアノ漬けで……でもこうして、この音楽祭に招かれて。また森下さんと再会出来たのだから、そこに関しては、多少の苦労が報われたかな、なんて」
 私が幾分心を緩め、多少の本音をぽつりと呟いた時であった。彼女の表情が途端に強張り、
「えっ、ひょっとして小川さん。今回の参加って、どなたかの招待で……」
「う、うん。私の今の担当講師、木谷先生の推薦で。ってか、てっきりどこの音大も――」
 一緒だよね。そう私が言い終わるよりも前に、彼女が乾いた笑みで首をもたげた。私がギョッと構えるのも気にせず、彼女はそのまま暗がりの空を見上げ、
「あはっ、あはははっ! やっぱり私、小川さんにすらかなわないのね!――ううん、残念ながら、私は最後までお呼びがかからなかったの。今回はたまたま、参加予定の先輩が二人、先月から体調を崩しちゃって、その埋め合わせ! でもそれすらも、必死にアプローチした甲斐あって、先生が渋々許してくれた」
「『埋め合わせ』……そ、そうなんだ。ごめん、私、てっきり――」
 彼女の気に呑まれるように、私は慌てて頭を下げると、相手は虚ろな瞳で私に刮目した。
 夕闇の増した庭内に、互いの切なげな吐息が漏れる。先程のインタビューでも終わったのだろうか。機材を持った地元テレビ局のスタッフが、肩越しにそそくさと立ち去って行く姿が小さく見えた。
 私は伺うように、彼女をそっと見つめた。潤いと滑らかさを備えたご自慢の長髪に、白のトップスとピンクのキャミソールワンピを身に纏った姿は、以前からの音楽一家に大切に育てられたお嬢様然とした可愛らしさのままだ。
 でもその内奥には、この数年の彼女の苦悩が、溢れんばかりに詰まっている。〝必死にアプローチ〟。高校時代の彼女からは想像も出来ない、がむしゃらな一言に、私は背筋の凍る思いで二の句が継げなかった。
「……こっちこそ、ごめんね。せっかく声をかけてくれて……こうして久々に再会出来たのに。私の愚痴や妬みばかり、本当気分悪かったよね――」
 震える声で、彼女のかつての素の優しい本音が聞こえた。でもそれを覆い隠すように、一人のピアノ少女は、目の前の現実にこれ以上耐えられないとばかりに、つと立ち上がり、
「それじゃ、私、皆も待ってるし、そろそろ行くね……本当に今日は声かけてくれて、ありがとう……またね」
 彼女が内で迸る濁流に一瞬でも抗わんと、涙を浮かべて、にこり微笑む。私はそれに、ぎこちない笑みで返すのに精一杯であった。
 
 ややあり、一人薄闇に取り残された私は、漸く腰を上げ、遊歩道へとその一歩を向けた。
 木立のその先のペンションからは、方々で柔らかな灯が漏れている。さすがに二人の先輩は待ち兼ねて、ディナー会場に向かってしまっただろう。悪いことをしてしまった、後で謝らなければ。
 私は先程の、頭を下げた上目越しの、森下さんの嫉妬と良心に葛藤する表情を思い返す。正直、私にはそれが羨ましくもあり、それ以上に心が締め付けられた。凡人の私にとってピアニストを目指すには、仲間すらも恨み辛み育んでいかなければならないのか。
「私は何のために、ピアノを弾くのだろう?」
 咄嗟に漏れ出た言葉に呼応するように、森から甲高い鳥の声が響いた。ん? あの鳴き声。もしかして、アオゲラ? かつて地元の街外れを大きくさえずり回った野鳥が秩父の避暑地にもいることに、私は暫し聞き耳を立てた後、黙ってそのまま元来た道を駆けた。
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