四章五節 地に立つというこの証(五)

文字数 2,102文字

 『私結婚するから』姉からそうLINEが飛んできたのは、もつ鍋会の翌日の夜のことであった。
 『おめでとう! 前言ってた鵜飼さん? 今年のお正月は、帰る予定だから、また色々と話を聞かせてよ!』
 久々の気を配った感覚で、角の立たない文面を送信すると、すぐに通話の音が鳴った。
「あけびか? いやぁ、今年の春休み以来だな。東京で引き続き、元気にやっとるか!?」
 父だった。すっかり忘れていた、見えない圧のかかった声音に、慌てて「元気だよ。全然連絡していなくて、ごめんね。お姉ちゃん、結婚するんだって?」と精一杯の平静を装う。
「おう、市役所の鵜飼君とだ。先日農協でも、産直イベントを無事取りまとめてくれたし、これであの娘はもう、安心だ」
 余程嬉しかったのだろう。滅多に飲まない酒でも入っているのか、珍しく饒舌に語る父に、私は黙って耳を傾ける。
「……ところで、あけびの方は、どうだ? この前『ピアノに打ち込むのは大学まで』みたいなこと言っていたけど、そろそろ卒業後のことも考え出しているか?」
 途端に声色の変わった父の口調に、私は「まぁ」と心臓が脈打つ。
 今年三月の帰省時に〝私はピアノでは食べていけない〟旨は、親には伝えていた。
 既に高三の一件や年初のコンクール落選で、ほぼ悟っていたのか、両親は落胆よりも、危ない橋を渡らないでくれたという、安堵の表情を浮かべていた。
「前に難色を示したとはいえ、やっぱり教師は良いと思うけどなぁ。特に小中学校なら、好きに音楽を教えられるじゃないか」
 さも愛娘を思いやるかのような、優しい声音に、思わず吐き気が込み上げる。その背後には〝音大出の音楽の先生〟と箔をつけたい親の魂胆が丸見えであった。
「学校の先生は、ごめんだけどないから」
 そう言うや否や、プツンと聞こえない糸が脳内に響いた。あ、懐かしいこの感覚。果たしてそれまで温厚だった父は、急に豹変したように声を荒げ、
「学校の先生は無いって……随分余裕綽々だなぁ。じゃあ音楽と一切関係の無い、民間の企業でも受けるっていうのか!? 悪いけど、お前からピアノを取ったら、何も残んないと思うけどな!」
 こうなると、もう止められないのは十分、分かっている。親の優越感に満ち溢れた説教が暫く続けられ、やがて一方的に電話は切られた。
「……最悪な夜だ」
 苦虫を嚙み潰しながら、ホーム画面を除くと、丁度姉から返信がきていた。しかし私はそれを見返すことなく、そのままスマホの電源を落とす。
 さて、作り置きのシチューを食べて、もうひと練習しなきゃ。ソファから身体を起こし、目に入った窓辺の景色は、紛れもない都会の夜であった。
 私は無心で、暫く、無数の営みに満ちた灯を眺めると、急に思い立ったように、スマホを再起動し、LINEアプリを開いた。
 メッセージを送ると、すぐに相手から返信は返ってきた。タイミング良すぎでしょ。私はその文面に、安堵の息を漏らすと、今度こそスマホをスワイプし、キッチンへと向かった。

    5

 一月ぶりに訪れた浜田湯は、夕涼み椅子が新品に取り換えられ、ネオン看板も真っ白に手入れされており、私にとってすっかり異質な存在に様変わりしていた。
 既にテレビ局のスタッフで賑わう正面を避け、裏口へと回る。そこには、人の好さそうな、小太りの男性が、洗い終わったケロリン桶を丁寧に日干ししていた。
「こんにちは……」
「こんちはー……ん? もしかして、君が小川さん?」
 肩にかけた鉢巻きを拭いながら、そう述べる相手に、私は「はい……」としどろもどろに応じる。
「そっか……はじめまして、宮田です。今日一日、太田さんの代わりに、浜田湯の手伝いをよろしくお願いします!」
「あ、こちらこそ、よろしくお願いします」
 爽やかな笑顔に呼応するかのように、石畳に干された桶はどれもピカピカであった。
 私はどうあがいても、ここまで綺麗には磨けなかったな。だからこそ、浜田湯を辞めさせられたのか。押し寄せる負の感情を慌てて振り払い「あの、博人さんっていますか? 一言挨拶したいんですが」と、ようやく表向きの笑顔へと切り替える。
「あぁ、さっき打ち合わせ終わったら、一瞬こっちに戻ってくるって言っていたよ。その後はぶっ通しで、撮影だから、その前に今日の営業の最終確認……」
 浴室へと繋がる木戸を顎でしゃくった時、その戸がガラッと開かれ、
「宮田さーん、言い忘れました。今日の薬湯の目分量なんですが、健美泉なんでいつもより少なめに配分してください」
 黒髪のボブカットに、馴染みの紺のパーカーを羽織った博人さんが、余裕の無い顔で、それでも的確に指示を発した。
「わかりました。ただ今日は夜も寒そうですし、ショウキョウや陳皮は少し多めに入れさせて下さい。後、アイスの発注ですが、最近チョコモナカの売れ行きが好調なので、いつもより多めに買わせていただきます」
「あ、はい、わかりました。助かります、よろしくお願いします」
 〝彼〟は私を見るや、一瞬拍子抜けした顔を浮かべたが、すぐに「あぁ、小川さん。今日はお手伝いありがとうね」と余裕のある笑みを湛え、忙しなげに浴室へと去って行った。
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