三章十五節 彼女だけの主旋律(五)

文字数 2,483文字


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 一年で最も陽が長い夏至の日。江古田の隣駅である桜台の公民館にて、麻里江さん主催の梅祭りが執り行われた。
「はい。この広口瓶に、水けを拭いた梅と氷砂糖を均等に入れていきます。あぁっ、みくちゃん、そっちは梅酒用!」
 今回の企画者の麻里江さんが、マイク無しもものともせず、張りのある声で、梅ジュースや梅ジャムの作り方を指導していく。
 そして十数名の参加者が、それに従い、鍋に火をかけたり、瓶に梅を詰めていく。忽ち館内に広がる、酸味の効いた甘い香り。一通り作業が終わると、参加者には、以前作成した梅ジュースや梅ジャムをあしらったトーストが振る舞われた。
「小川さん、今日はこっちのサポートなんだ。浜田湯の手伝いには、行かなくて大丈夫?」
 美味そうにトーストを頬張りながら、梅ソーダを手渡す誠さんに、私は「ありがとうございます」と小さく微笑んだ上で、
「そうなんです。本当は今晩の青梅風呂の準備を博人さんとする予定だったんですが、今日はイベントの方に回ってくれと。それに……」
 そう言いかけながら、私は二つ隣の卓で、梅ジャムカナッペを嗜む、由紀菜さんを眺める。本日、瑞希さんと恭介さんは、都合で欠席であったが、彼女は、かつて一緒にトランプ遊びをした、美紅ちゃん母子と、実に楽し気に語らい合っていた。
「それでは、以上で、『皆で楽しむ梅祭り』イベントは終了です。後はもう、皆さんのタイミングでご帰宅下さい! 
 ちなみに江古田の銭湯『浜田湯』では本日、季節の薬湯『青梅湯』を開催しています。良ければ皆さん、是非さっぱりと、汗を流していってください」
 麻里江さんの締めの言葉に合わせて、参加者から拍手が交わされる。そして飲み食いし終わった参加者が、次第に退室していくタイミングで、私は公民館出口にて、誠さんと共に、本日の参加費徴収と浜田湯のチラシを配布していく。
「いや~、今回は初の非江古田開催にもかかわらず、結構参加者多かったねぇ。やっぱり、私の企画力の凄さ? あぁ、一仕事した身体に梅酒が染み渡るー!」
 作業がひと段落したところで、階上から麻里江さんが、勝利の美酒に酔いしれるかのように現れる。お洒落なエプロン姿に、ロックグラスを煽る様は、いかにも彼女らしかった。
「相沢さん。まだ参加者、残っているんですが……」誠さんが呆れ声を放つも「いいの、いいの! 後は全員顔見知りばっかだから!」と彼女は、鼻歌交じりに、自身が作成したチラシを眺める。
「麻里江さん。今日は本当に、ありがとうございました。おかげさまで、無事梅祭りを終えることが出来ました」
 デザイナーらしい姿と見事なチラシ作りに加え、司会まで滞りなく済ませるなんて!
 一層尊敬の眼差しで、進行役の礼を述べると、彼女は実に自然な口調で、
「ぜーんぜん。むしろ自分がやりたかった企画を、通してくれたひろちゃんに、感謝よ。それにー……私、親が倒れて、八月から仙台に帰ることになったし。お世話になった浜田湯面々との最後の思い出作り」
「え? 相沢さん、東京を去るんですか!?」
 声を上ずらせた誠さん以上に、私があまりの衝撃に動けないでいると、彼女も「あっ」と呆けた顔で背後を眺める。
「あけび……言われた時間通りに来たけど、これ、どういうこと? なんか、皆、続々と帰ってるっぽいし。もしかして梅ジャム作り、終わってない?」
 そこにはきっかり時間通り。マゼンタのカットソーというラフな姿の繭が、出で立ちとは裏腹の神妙な表情で、ひっそりと佇んでいた。
「繭……ちゃんと来てくれて、ありがとう。ううん、大丈夫。今から梅ジャム作り、始めるよ」
 自然な口調とは裏腹に、祈るように、そう呟くと、彼女は、暫し逡巡した後、無言でスニーカーを下足入れへと突っ込んだ。
「小川さん、それじゃ、俺、外で引き続き、参加費回収してるから! ふふっ、どうぞ、楽しんでいってください!」
 入れ替わるように、誠さんはそう述べると、手指を交差させ、外へふらっと去って行った。
 既に事情を知っている、麻里江さんが「会場は二階だよ」と柔和な笑みで階上を指差す。しかし彼女は、よそよそしく一つ頷いただけで、その表情が、一向にほぐれることは無かった。

 調理場に戻ると、甘酸っぱい香りと、片付けの済んでいない食器が無造作に置かれ、既にイベントが終了していることは、明白であった。
 しかし、それ以上に、彼女が訝しみながら、所定の卓へと歩を向けた瞬間、
「っ!」
 最奥の卓にいる由紀菜さんの存在に気づいてしまう。途端に、彼女は、憤怒の表情を露骨に浮かべ、
「あけび! なんで、あの人がいるのよ! もしかして、私を騙したね!?」
 声を荒げ、食って掛かるのを、私は「違う。由紀菜さんはたまたまで、純粋に私は繭と――」
 咄嗟に手元に置かれた、広口瓶を手にした瞬間、
「はいはーい。何をごちゃごちゃ言っているのか、知らないけど。二人のために材料を残しておいたんだから、しっかり作り切ってくださいねー」
 講師役へと戻った麻里江さんが、割って入るように、ざるに入れた冷凍梅を、繭の胸元へと押し付ける。
「ごちゃごちゃって……もしかして、あなたも〝こっちの人〟じゃないでしょうね!? そもそも、このイベント自体、実はそういう人たちの集いじゃ――」
 そう述べるや、彼女は怯え切ったように、辺りを見回す。しかし視線の先には、美紅ちゃん母子や井上の叔母さんといった、何の変哲もない練馬区民が、キョトンとした顔で彼女を眺めているだけであった。
「えっとー……ごめん。何を言っているか、分かんないけど、そもそも、私ノンケだから。後、ここにいるのは、全員、善良な一般区民なんで。言いがかりはやめてほしい」
「はい、早く受け取ってくんないと、溶けた水が床に滴り落ちちゃうよ」既に汗を搔き始めた冷凍梅を再度手渡され、彼女はしぶしぶとざるを受け取る。「作り方は、あのボードに書いてある通りだから、一緒に美味しい梅ジャムを作ろ!」努めていつも通りの笑顔でそう呟くと、彼女は「分かった」と投げやりな顔で、梅の皮剥きに取り掛かり始めた。
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