四章十節 地に立つというこの証(十) 

文字数 2,723文字

 〝彼女〟に促される形で、私たちはそろそろと音楽ホールを後にした。公園外に停めた自転車を手にした博人さんは、そのまま元治湯とは真逆の方向へと歩を進めていった。私は連行人のように、その後をとぼとぼ付いていく。この間、一貫して私たちは無言のままだ。
 やがて巨大なウェハースのような市役所ビルを通過すると、先程とはまた別の、いわゆる小さな〝地元の〟公園が姿を現した。
 〝彼〟は慣れたように再び自転車を停めると、園内へ入っていく。落葉で覆われた芝生広場には一組の親子がボール蹴りをし、数名の老人が太極拳をしていた。どうやら祭りの賑わいは、ここまでは届いていないらしい。
「ここね、自分にとっては隠しスポットっていうかさ。修業時代含めて、考え事したい時にはよく利用していたんだ」そう言いながら、大池前のベンチにそっと腰掛けた。
「すいません、そんな大切な場所に連れてきてもらって……そもそも今回、勝手に博人さんのホームグラウンドに、押しかけて、ごめんなさい」
 先程から永遠に反芻していた言葉をようやく吐き出すと、〝彼女〟は「とりあえず座ったら」と苦笑いでもう一人分の空間を促した。
「小川さんが謝ることじゃないよ。それを言うなら、僕の方こそ、勝手にいなくなってごめんなさい。今夜中には『浜田湯』に帰る予定でした。でもちょっとだけ……外界を気にせず、自分に向き合う時間がほしくってさ」
 〝彼〟は真っ暗なスマホを一瞥した後、冷めきった眼差しを水面に向けた。
「全然良いと思います。無事にこうして会えたことが一番です……私、もし博人さんに何かあったらって……それだけが心配で――」
 再び鼻の奥がツンとくるのを紛らわすように、スマホのLINEを起動した。しかし直前でそれを諦めると、今度こそ逃げるのは止めようと、目の前の真っ白な小顔に正面から向き合い、
「やっぱり、一つだけ本音を聞かせてください。今回のテレビ取材について『集客が更に上がれば、結果オーライ』と話していましたが、それは本心ですか」
「もちろん、本心だよ。でも、結果的に今回の件で、多くの人に迷惑をかけてしまったけどね」
 前髪を煩わしそうに払いながら、切れ長の目で遠くを眺める〝彼女〟は、化粧こそしていなくとも、やはり男性のそれには見えなかった。
 僕はトランスジェンダーでは無いから、女性ホルモンは投与しない。かつての折に博人さんが言っていた言葉を思い出す。
 〝彼〟の中でのジェンダーは既に落ち着いていた。その上で、千恵さんを失った〝彼女〟は、一人の番頭として、浜田湯の運営に尽くしている。それだけでも、私では考えられない程、十分強い生き様であった。
 それなのに〝彼〟はそれに満足せず、新規顧客の獲得を目指し、勇気を振り絞って、テレビ取材に応じた。
「正直迷っているんだよね。前に小川さんが言った通り、従来の常連さんを中心にした、経営のままでも良いのかもしれない。でも昨今の銭湯事情をみると、どうしても胸が騒いでね……今のままでは、いずれ失ってしまうかもしれない。これまでのお袋やおじいちゃん、おばあちゃんのように……僕の存在の証として、最後のよすがである『浜田湯』は絶対に失いたくない……だから、今回僕は――」
 震える手を、気づけば私はそっと重ねていた。それは珍しく、私にとって行為が思考を先走った瞬間であった。今〝彼女〟の隣にいるということを感じさせたかった。ぎょっとした〝彼〟に、私はなおも足りないとばかりに、
「だからって、博人さんが無理する必要は無いと思います。もう十分に頑張り続けたじゃないですか。それなのに、これ以上思い悩むなんて、それはもう苦行です」
「今のままでも『浜田湯』は消えたりしません。もし消えそうになったら、私や由紀菜さん、恭介さんが全力で阻止します。もっと私たちを信用してください、博人さんが一人苦しむ必要は無いんです!」
「でも」
「私は!」
 〝彼女〟の表情は、心底安心しているように見えて、それ以上に怯えていた。私はそれを払拭しようと、汗ばんだごつい手を、その華奢な指にゆっくりと絡め、
「確かに今後、私は浜田湯のお手伝いは出来ないです。でも何かあった時は、今回みたいに、絶対に駆け付けます。瑞希さんや誠さんもそうですし、少なくとも私は、博人さんの前から勝手に消えたりしません」
 思わず嘘偽りの無い本音が口を衝いていた。これが私の精一杯だった。相変わらず〝彼女〟の表情から安堵の色は見えなかった、それでも振り払われると思った右手は、求めるように、ぎゅっと握り返された。
 遠くからのどかな中国音楽、親子の笑い声が聞こえる。暫く確かめるように携えられていた手は、やがてそっと離れ、〝彼〟は、ゆっくりと腰を上げ、
「ありがとう……うん、その言葉を聞けただけで、凄くほっとした。そうだね、僕の周りには信頼出来る仲間がいるんだ。もっと彼らのことを頼ってもいいんだよね」
「そうですよ。確かに大切なものはいつしか失ってしまいます。でも失うだけじゃないです。それ以上に新しい大切なものに、生きていく上で出会えると思うんです」
 それは自分も同じ。最後の言葉は内に留めながら、そう呟くと〝彼女〟は一瞬、幼子のように「そうかもしれないね」と、つぶらな瞳を潤ませた。
「さて、そろそろ帰……って、そうだ! 剪定ばさみを早く洋介さんに届けなきゃだった。やばい、完全に忘れてた……」
「あぁ、洋介さんって、ご在宅なんですね」
 先程、元治湯に向かっていたことは話さず、思わず口走ると、
「うん、元治湯で隠居生活してるよ。仕事は洋一さんに代替わりしているけど、今でも時々手伝ったり、町の老人クラブで精力的に動いているんだ」
 苦笑いを浮かべ、窘めるように答えたのは、いつもの優しく、頼りがいのある博人さんであった。
「それじゃ、僕は岸和田さんとこ戻るね。今日中には江古田に帰るから、皆にもそのこと伝えといて貰える?」
 脇に置いたビニール袋を携え、少し気まずそうに頼み込む〝彼〟に、私はもちろんですと顔を綻ばせると、〝彼女〟は「ありがとう」とニコリと微笑み、「また江古田で」と去って行った。
 私はそれからしばらく、目前のドッグランをする男性をぼーっと眺めていたが、さすがに肌寒さを感じ、公園を後にした。
 駅までの道中、スマホを確認すると、瑞希さんから新着のメッセージが届いていた。私は慌ててそれを返そうとしたところで、直前で思い止まった。やっぱり新幹線に乗ってからにしよう。
 駅前は大神輿が練り歩き、一層賑わっていた。陽気な祭囃子が、街を彩る。私はそれに触発されるように、気づけばステップでも踏みそうな足取りで、ホームへと向かっていた。
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