五章一節 即興曲 FP63 第1番~第10番(一)

文字数 1,361文字

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 久々に嗅いだ植物と磯の混じった香りは、やっぱり私には苦手だった。一年も残すところ後、半日を切った昼下がり。駅庁舎内でぽつねんと座っていると、思いの外早く、姉のアクアがロータリーに滑り込んできた。
「お疲れー。久々だね。上京してからこっちには戻ってきてないんだっけか?」
「久しぶりだね、お姉ちゃん。うん、正直、今年のどこかで一度帰りたかったんだけど。春も夏も、なんだかんだ予定が詰まっちゃってて」
 以前よりも幾分垢抜けた表情の姉に、申し訳なさげな顔のまま、助手席に腰掛けると、
「そっか。相変わらず、ピアノ頑張ってるんだね」彼女は特に感情の籠らないまま、その丸顔に少し渋面を浮かべた。
「だって今回も、明後日には東京帰っちゃうんでしょ。せっかくこっちに戻ってきた訳なんだから、もう少しゆっくりしていきなよー」
「うーん、本当はゆっくりしたいんだけど、年明けライブカフェでの演奏やコンクールの伴奏と、後一月は練習に打ち込まなきゃなんだよ。それでもお姉ちゃんが結婚するっていうんだから、この年末年始は直接お祝いしなきゃって」
 吐息を漏らし、少し冗談交じりに笑みを浮かべると、「あんたのそういうとこ変わんないね」と、苦笑いのままハンドルを切った。
 重たい沈黙、私はスマホを一瞥した後、正面を見据える。ダッシュボードには、地元のプロ野球チームのマスコット人形が複数置かれていた。姉妹揃ってスポーツには興味が無かったはずだが、鵜飼さんの影響だろうか。
「音大生活は順調そうなんだね。あれだけ地元の英雄だったんだもん、東京でも十分渡り歩けるっしょ」
 やがてこの気まずさに耐えかねるように、姉が特に興味も無さげに尋ねる。 
「そんなことないよ。この二年で自分の実力の無さに、どれだけ絶望したことか……ピアノも、全力で打ち込むのは、残り二年にすることにしたんだ」
「そう。残り二年、ということはピアノで食っていくことは諦めたのね……それじゃ、卒業後はどうする感じなの」
「目下、模索中……でも、少なくとも、地元に戻る選択肢は、今のとこ考えていない」
「そんなこと、言われなくてもわかってるわよ。家は私たちがやっていくから、その辺りは全く気にしないで」
 彼女の強調した言葉にも、私は「ありがとう」と心からの謝辞を述べた。窓からは丁度ひらけた海が視界に入り、水面は穏やかな光が輝いていた。
「ところで、あけび。あんた彼氏いるの?」
 ややあり、少し遠慮がちな彼女の問いかけに、私は「いないよ、東京に出てから一度も」と躊躇うことなく応える。「本当に、地に足ついた仕事が充実していて、ちゃんと結婚が出来たお姉ちゃんが羨ましい」私の噓偽りの無い本心が伝わったのか、姉は「そんなことないよ」と、少し表情を和らげながら、ブレーキを踏んだ。
「でもなんだかんだ、結婚生活は幸せかな。大地も普段は仏頂面に見えて、心の芯は優しくって。この前も、仕事後クタクタで家に帰った時にさ――」
 チラとダッシュボードに視線を向け、アクセルを踏みながら、彼女はまんざらでも無さそうに、ここ一二年の、彼女の物語を紡いでくれた。
 家までの残りの道中、私は聞き入るように姉の結婚話に耳を傾けた。姉が幸せであれば、何よりだ。海を越えた山道には、早くも地元名物の菜の花畑が、燦然と咲き乱れていた。
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