二章七節 レインボーフラッグ(四)

文字数 2,581文字


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 僕が自分の性別に最初に違和感を抱いたのは、中学二年の夏の時分。あぁ、そうか。今から丁度、一〇年前になるのか。
 元々僕は子供の頃から、周りが夢中になっていたヒーローアニメやアクションゲームなんかより、姉が買っていた少女漫画やメロドラマの方がよっぽど好きだった。
 でもその一方で、スポーツは観るのもするのも大好きだったし。まぁ、当時は男女分け隔てなく接せる、いわゆる人当たりの良い男子という印象でしかなかったと思う。
 中学に入学するや、当時ハマっていたという理由だけで、僕は真っ先にバレー部に入部した。そうしたらそこで紅顔の、バレー部としてはひと際身体の小さい、クラスメイトT君と出会って。
 ポジションが同じだったし、帰り道が途中まで一緒というのも相まってか、僕たちは次第に意気投合していった。二学期になると僕はほぼ彼と、ニコイチとして学校での時を過ごしていくようになっていく。
 二年の夏になり、バレー部は二泊三日の遠征合宿に出かけることになった。そうしたら期せずして、合宿先の宿泊所が彼と同室となって。僕たちは互いに喜び合って、日中の練習に打ち込んだよ。
 そして二日目の夕食前の自由時間。僕が風呂から戻ると、一足先に帰室していた彼は、午後の試合で疲労困憊だったのか、練習日誌片手にウトウトと舟を漕いでいた。
 初め、僕は何の気なく、自分の二段ベッドへと向かいかけた。でも、その時だよ。彼の後髪から、シャワーを浴びた直後の残り香が、惑わすように僕の鼻腔を甘くくすぐったのは。
 瞬間、僕の心は一気にざわつき始めた。それまで微かに彼を可愛いと思っていた、もう一人の僕の女心は、これを機に、まるで卵の殻を割ったように、目覚めそして小さく暴れ出した。
 静かな部屋に、彼の小刻みな呼吸音だけがなおも響き渡る。僕はこっそりT君に近づくと、彼の女の子のような、潤いを帯びた後髪を、いたいけにそっと嗅いでみせた。
 いけないこととはわかっている。この時、彼が起き出していたら、僕の禁断の行為は、瞬く間に終わりを迎えていただろう。
 しかし彼はあろうことか、僕の微かな吐息が心地良かったのか、肌つやの綺麗な寝顔に、うっすらと幼子のような笑みを僕に称え見せたのだ。
 途端に、僕の理性は一挙に吹き飛んでしまった。ほのかに赤らんだうぶな頬に、僕は顔を近づけると、咄嗟に彼を抱きしめるように押し倒していた。
 瞬間、彼は起き上がり、ギョッとした顔で僕を凝視した。慌てて我に返った僕は、取り繕うようにこう叫んでいた。「何寝てんだよ!」「もうすぐ飯の時間だぞ」
 沈黙が暫く続いた。彼は暫く呆然とした顔で僕を見つめていたが、やがて「悪ぃ、今日の試合が割と応えた」「でも、そんな荒手の起こし方あるか」とやや機嫌を損ねながらも、再び練習日誌を記し始めた。
 結局彼はこのことを、僕の小さな悪ふざけと認識してくれたのか、特に気にも留めないまま、合宿後も変わらず接してくれた。
 でも僕は、この一件が重い楔のように胸に打ち込まれ、以前のようにはもう、彼と接することは出来なくなっていた。
 T君とは卒業を機に、彼が親の都合で兵庫へと引っ越すまで、表面上は良好な関係を続けていった。
 けれど僕はついぞ、彼には事の真相を話すことは出来なかった。そしてそれと並行して、僕の女性としての自我は、折を見ては顔を覗かせ、男性としての辻無博人を徐々に苦しめていく。

 高校生になると、僕は仲の良い友達や先輩に対し、同性の枠を超えた、恋愛の情を抱くことも否応なく増した。そのことへの耐え難いストレス、また日頃の憂さを発散するように、この頃から自室にて、姉の衣装や、果てはネット通販で購入した女性ものの衣服を試着し、悦に入るという趣味も新たに生じていった。
 自分が男性ということに不満は無い、でもその一方で、自分の〝女性な部分〟も決して否定することは出来ない。
 高一の晩秋、ついに僕はそのことを、最も信頼していた幼馴染に告白する。寒々とした街を一望できる、僕たちにとって馴染み深い山峰の頂上。絞り出すように吐露した僕に対し、彼女は暫く黙考した後、言葉を選ぶようにこう告げた。
「それって……別に普通のことなんじゃないかな。私も好きなバンドのライブに行く時なんかは、周りの男子のように、心が荒ぶり滾るし。
 後、博人が女性も好きっていうのは、安心した。それってオネエとはちょっと違くない。案外他者に飢えているのかも。誰でも良いから付き合いたいっていう、心の奥底の求めっていうか――」
 普段は割と天真爛漫な彼女が、いつになく真剣に向ける眼差しに、僕は「そうかもね」と曖昧な笑みを浮かべることしか出来なかった。
 思えば、二〇一〇年代初頭、北関東の一田舎の高校生に過ぎない僕たちが、バイセクシュアルやトランスジェンダーの概念を知らず、こんな結論に至るのはある種、当然といえたのかもしれない。
 やがて僕は、心配した彼女の紹介で、一人のクラスの女子と付き合うことになる。でもそれも長続きしないまま、やがて一人やもめの母が、交通事故により、不慮の死を遂げてしまう。

 そう言ったところで、博人さんは、一息つけたいとばかりに、目の前の珈琲牛乳に手を伸ばしかける。
 私はそれを無言で見つめながら、ふと辺りを見回した。
 気づけば室内は私と博人さん二人きりで、千恵さんが点けたのだろうか。いつしか天井には、シーリングライトが煌々と周囲を照らし出していた。
「小川さん、ごめんね。色々と言いたいことはあると思うけど、ひっくるめて、どうか最後まで語らせてほしい」
 やがて珈琲牛乳を一飲みし終えた〝彼〟が、恐縮した態度で頭を下げる。
 私は条件的にそれにこくんと応じると、憂いを帯びた顔をそのまま眺め続ける。〝彼女〟はそれを見て安心したのか、一呼吸置くと、薄闇の増した窓の外を眺め、
「数年前に別れていた父親はね、姉とは良好な関係を築いていたからか『せめて姉だけでも、俺が引き取る』って、葬儀の席で豪語してくれたんだ」
「でもね、逆に父は僕の性分を早くから見抜いていたのか、僕には全く興味を示してくれなくてね。結局、金銭的理由という結論で、姉は父親の下へと引き取られ。僕は親族間で侃々諤々の意見が交わされたあげく、母方の実家、この浜田湯に移り住むことになったという訳さ」
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