三章三節 番頭はじめました!(三)

文字数 2,046文字

「博人さーん。脱衣所のモップがけ、終わりましたー! それで、さっき気づいたんですが、女湯――」
 床の隅々まで磨きをかけ、過去最短の清掃時間に、ほくほく顔で待合室へ戻ると、丁度下足箱の手前で、一番風呂目当ての恭介さんが、人目もはばからず、博人さんに縋りついていた。
「今回こそ、過去最高の仕上がりだと思ったのにさぁー。前回よりも酷い、一次審査落ちだなんて……誠からも、暗に別の道も示唆されるし、俺、そんなに脚本家向いてないのかなー」
「大丈夫。恭介の書く脚本、僕は嫌いじゃないよ。腐らず、次があるって。変わらず、応援してるから」
「うぅっ、そんなこと言ってくれるの、博人だけだよ――」
 まるで聖母のように、恭介さんの背を優しくさする姿に見惚れていると、こちらに気づいた〝彼〟は全く自然な態度のまま首を傾げ、
「小川さん、モップがけ終わった? したらさ、少し早いけど、暖簾を出し――」
「あ、はい! それで女湯の蛍光灯なんですけど。奥の一本、どうも切れちゃったみたいで……」
「あぁ、蛍光灯かー。先日在庫が丁度尽きちゃったんだよね……ほら、早く風呂入ってこい。今日もお前のお目当ての一番風呂だぞ」
 〝彼女〟はもう一度、恭介さんの背中をぽんと叩くと、そのまま苦笑いで番台へと向かう。
「んー!……あけびちゃんも俺の書く脚本、ぶっちゃけ、どう思う? この際だから、はっきり言ってくれていいんだよ」
 いつになく真剣に、詰問する彼の眼差しに、私は暫し考え込んだ後、「いや、私も十分面白いと思います」と素直に応じる。
 彼はそれが、私の心からの意見と伝わったのか、曖昧な笑みを浮かべながらも、そのまま脱衣所へと去って行った。実際、彼の脚本は前に一度読む機会があったのだが、その類い稀な設定と引き込まれるプロットに、私はお世辞抜きに、続きが気になったのだ。
「小川さん、ごめんだけど、店番お願いしてもいいかな? 今のうちに、ちょっと先の家電店まで、蛍光灯買ってくるわ。言うて、そんなにかかんないと思うし、この時間に来る客なんて、いつもの常連さんとか、高が知れてる」
 〝彼女〟はそう話しながら、最近購入したベージュのスプリングコートをいそいそと羽織り始める。
「あの、良ければ、私が代わりに買ってきましょうか」思わずそう問いかけると、博人さんは「いや、家電店行くならついでに買っておきたい物もいくつかあるし……それに、そろそろ番頭ソロデビューさせて置こうと思ってたんだよねー」
 いたずらっぽい笑みで、〝彼〟はそう告げると、「何かあったら、連絡頂戴」と暖簾を表へ出し、そのまま浜田湯を去って行った。
「いや、そんなにかかんないって言ったって。まさかこんな形で番頭デビューするとは――」
 博人さんが裏の自宅にいる中、番台に座ることは何度かあったが、彼が外出し、一人お店を任されるのは初めてのことだ。
 思わず溜息を吐きながら、番台に入ると、何やらパイプ椅子の上に藤色の布切れが一枚置かれていた。何だろう、思わず手にするとそれは古びた、それでいてパリッと糊のきいた、浜田湯屋号が入った前掛けであった。
『番頭デビューした折に』間に挟まれた書き置きに、私は思わず胸がカッと熱くなった。
「すいません、大人二名。いいかねぇ?」
 いつの間にか店内には、博人さんの予想に反し、初めて見る二人の老婦人が肩を震わせながら、入浴券を差し出していた。
「あ、はい。ありがとうございます! どうぞ、ごゆっくり!」
 私はそんな彼女らに満面の笑みを浮かべ、引き戸に入っていくのを見送ると、帳簿に正の字を二画まで記す。
 静謐に包まれた空間の奥から、微かにカポーンと浴槽の音が響き渡る。あぁ、これこそ、安らぎだ。
 春陽射し込む昼下がり。いつもなんとなく過ごしている雑多な番台が、この時ばかりは人々の安穏を一挙に包み込む、母なる母胎のように思えてならなかった。 

「うー……博人さん、遅すぎます」
「もう、かれこれ一時間か。あいつ、愛弟子待たせて、一体どこふろつき歩いてんだか」
 先程の落ち込みはどこへやら。湯上りのすっかり整った表情で、ラムネをあおる恭介さんに、私は深く溜息をつく。
「そういえばさっき、今日が桜の見納め、みたいなこと言っていたんですよね。案外、外出ついでに、桜見物なんか――」
「いや、普通に買い物が長引いているだけでしょ……はぁー、しかしこれから混んでくる時間帯に、あけびちゃん一人だと大変ねぇ」
「……だったら恭介さんが、少しぐらい手伝ってくれてもいいんですよ」
 上目遣いに、ジッと相手を見据えると、彼はぎくりとした顔のまま視線を彷徨わせ、
「いや! 俺はねー……帰って次の脚本のプロット考えなきゃだからさ……ハハー、ごめんよ……あけびちゃん、それじゃまた!」
 そう述べると途端に立ち上がり、いそいそと出口へと去って行く。私は「またのお越しをお待ちしております!」とひと際大きい声を発し、再び書きかけの帳簿へ向かいあった次の瞬間であった。
「Excuse me?」
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