四章二節 地に立つというこの証(二)

文字数 1,718文字

「大丈夫? 君もまた時間が必要?」
 試すような微笑に「いえ」と一呼吸置く。それぞれの地元の香りに、心を静めると、本日持参したリストの楽譜は脇へ追いやった。
 先生に披露する曲はこれしかない。久方ぶりに奏でる序奏は、早くも一音割れてしまった。以降も数か月ぶりに奏でる選曲は、何度もミスが起こり、とても世界が誇るピアニストに披露する代物では無かった。
 それでも今の、私の羽を形作っている原曲はこれでしかありえない。前回よりも密に、この数か月で一層自信を得た私は、より彼に同調的に、世界に挑むようにそれでいて温かく演奏を終えた。
「へぇ……いや、これは面白い! この一年で、君にそんな心境的変化が!」
 驚嘆と祝福の大声に、咄嗟に我に返る。振り向くと講師は、老爺が孫をあやすように、大袈裟に柏手を打ち、
「しかし、ひどいもんだ。この私のレッスンで、これだけミスを連発した生徒は初めてだよ。チャイコフスキー『ピアノ協奏曲第一番』、これはいつぶりの曲なんだい?」
「……年初の、『若手パフォーマーピアノコンクール』に向け、昨秋から始めた曲なんですが、見事落選してしまいまして。木谷先生からは、一旦寝かせておこうということで、今は多曲やチャイコ以外の曲を弾いています」
「ふぅん、下手に一つの曲に集中させるより、少しでも多くの作品で経験を積ませる。音大講師としてはある種、模範的な指導か……」
 そこで彼は少し声を落とすと「スコルテジア、答えたくなかったら、無言でいてください」と前置きした上で、
「小川さん。君はもしかして当事者なんですか? レズビアン、或いはBTQいずれかの――」
 真剣な眼差しに、咄嗟にかぶりを振る。「いえ、私はいずれでもありません! 少なくとも現在において、生まれ持った性自認ですし、性的指向もヘテロセクシュアルな認識です」
「ほう、それなら、この曲をなぜこんなにも愛おしく、それでいてやるせなさと挑戦的に演奏したんだい?」
「それは……」
 私は躊躇い気味に背後の時計を見やる。去年よりも一層短い、六〇分の指導時間。その限られた時間を、演奏以外の雑談に費やしたくなかった。
 しかし今ここで、現在練習中のリストを、通り一辺倒に指導されるのが、最も有意義な時間たるのか。いや、はっきり白状しなければならない。そして話すなら、しっかりと詳らかに。私は覚悟を決め、昨秋の菊祭りから先日の繭の一件までを、包み隠さずイタリアの巨匠に吐露した。
 全てを語り終えた頃には、残り時間は一五分を切っていた。「……ヴィード、日本のお風呂屋さんで、その手の方々との交流を通して、問題意識を発信しているという訳ですか。素晴らしい……日本は私たちの国と比べても、まだまだ性への寛容度が低いイメージですからね」
 でもね。そこで彼は不可解とばかりに両手を掲げた。「一つあなたは嘘を言いました。その様子ですと、自分の固定観念すら、崩せていないようです」
「嘘?」私が拍子抜けした顔をするや、彼は呆れたといった顔を浮かべ、「ヒロトって、トランスジェンダーに好意を抱いているのであれば、それは、紛れもなくバイセクシュアルでしょう。なんのことはない、サポートする側だったのが、いつしか君も当事者に変化していたという訳ですね」
「当事者――」
 当然といわんばかりの断言に、心が揺れ動く。と、屋根に置かれたスマホのアラームが、勢いよく鳴り響き、
「ふっ、特別レッスンと銘打っておきながら、何もピアノに関する指導は出来なくて、ごめんなさいですね。最後に一つだけアドバイス。チャイコのピアノ協奏曲の向上、これはもちろん大事ですが、プーランクの『一五の即興曲』あたり、今後練習してみるのも、良いかもです」
「引き続き、翼を羽ばたかせるための、きっと肥やしになるはずです」
 昨夏と同様、相変わらず威圧的な態度はおくびにも出さず、せめてもの罪滅ぼしとばかりに、柔和な笑みを浮かべる白髪の天才演奏家に、私はすかさずメモをとった。
 以後、私はまるで一生の偶然を使い果たしたかのように、有名演奏家から指導を受ける機会に恵まれなかった。この時が音大生活で、天才演奏家にレッスンをつけてもらった、最後の時間であった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み