四章十一節 地に立つというこの証(十一)

文字数 2,039文字

「昨日から急にいなくなり、しかも音信普通にしてしまい、申し訳ございません!」
 その日の夜遅く、無事浜田湯に戻ってきた博人さんは、入店するや、集まる面々に、声を大にして頭を下げた。
「本当だよー、この二日、入稿前だってのに、全く集中出来なかったんだからー。とはいえ、今日の夕方には無事校了出来たし。ふふっ、やっぱ敏腕編集者は、メンタル力が違うねー」
「俺も、この二日、心配で全く筆が進まなかったんだから! 罰として、博人―、一週間ぐらい、入湯料無料にしてくれないと、気が済まねぇぞ!」
「お前の筆が進まないのは、いつものことだろ……ひろ、ごめんな。俺たち、近くにいながら、お前の心の奥底の苦しみに、気づいてやれなくて」
「ううん、誠たちは全然悪くない……単純に僕が――」
 と言いかけたところで、それまで由紀菜さんの横にいた瑞希さんが、つかつかと博人さんの下に歩み出る。
 なんだろう。周囲が訝しむ間もなく、彼女はパシンという乾いた平手打ちを、〝彼〟のその真っ白な頬に食らわせた。
「博人、あんた私たちのこと、信頼してなかったんだね……私たち、仲間だと思ってた……私、この四人ならなんでも、自分の悩みは話せると思ってた……なのに、助けが欲しい状況でも、あんたは――」
「瑞希……ごめん。信頼してなかった訳じゃないんだ。ただ単純に、ぶちまけるのが怖かった……弱い自分を見せたところ、大切な皆が失望して、離れてしまうんじゃないかって――」
「馬鹿」
 キッと博人さんを睨む彼女の目元には、大粒の涙が溜まっていた。「離れる訳ないじゃない……というかあんた、私たちの関係が、そんなもんだと思ってたの……見損なわないでよ! あんたが思ってるより、私たち四人は、博人のこと――」
「はーい、ストップ、ストップ」
 瑞希さんの言葉に、博人さんがハッとしたところで、由紀菜さんが、溜息交じりに彼女の腕を掴んだ。
「ちょっ、由紀菜!」
「瑞希、興奮しすぎ。反省している博人に追い打ちをかけるな……とはいうものの、正直、今回の件は、私もちょっと頭にきたかな」
 と、声音はいつもの調子ながら、少しピリついた空気を醸し出す彼女に、博人さんは引き続き、真正面から「ごめん」と頭を下げた。
「うん、事情は分かったから、もういいんだけど。というか、あんた、色々と張り切りすぎなのよ!……状況は理解しているとはいえ、なんで銭湯の主が、余裕を失ってんのさ。前進姿勢も大事だけど、せっかくこれまでコツコツ築いてきた、変わらない場所の大切さも、改めて考えな」
 諭すように、博人さんの頭をぽんと撫でる彼女は、まごうことなき大人びた年上の女性のそれであった。
「そうだぞー、由紀菜の言う通り。そして、何があってもさ。俺たちは、お前の味方だから!」
「むしろ、散々手伝いをしてきたのに、今更それを言うか」
 背後の恭介さんの励ましや誠さんの呆れ口調に「皆……うん、本当に僕は……」と〝彼女〟はついにこらえきれず、その目尻を拭った。
「……んんっ、宮田さんと太田さんも、この度の勝手な振る舞い、大変申し訳ございませんでした。二度とこのような軽率な行動は取りませんので、もし可能なら、引き続き浜田湯のバイトを受け持って、いただけますでしょうか」
 と、一つ咳払いをすると、〝彼〟は、まだ終わってないとばかりに、緊張した顔で、隅のソファに腰掛ける二人の年配バイトさんに打診した。
「いやぁ……若いって良いですね。朽ちかけていた大切な感情を、思い出させていただきましたよ……もちろんです。引き続き『浜田湯』の方のお手伝いをさせて下さい……ねぇ、太田さん」
 余裕のある愛想笑いのまま、隣を伺う宮田さんに、太田さんも「えぇ、まぁ今度、音信普通になったら、さすがにわかりませんけど」と、ニヒルな笑みを浮かべて、こくんと応じる。
「ありがとうございます! もちろんです、何卒引き続き、うちのご助力をよろしくお願いします!」
 感極まった声のまま、三度頭を下げる博人さんに、「さて、それでは一件落着ということで、どうです? ボイラー入れてますので、もし良ければ皆さん、この後、ひとっ風呂浴びませんか?」
 どうせ今日は休業日ですし、私たちだけで、あったまりましょう。相好を崩しながら提案する、太田さんの粋なサプライズに、私たちは断るはずも無かった。
 『是非!』その場にいた多くが歓喜の声を上げ、私たちは揃って、貸し切り状態の風呂場へと向かった。
 三人だけの湯舟は、通事の営業、或いはバイト後一人で入っていた時とはまた違う、新鮮さであった。「今回はありがとう。博人が無事、鞘を納められたのも、小川さんが遥々高崎まで探し当ててくれたおかげだよ」あつ湯に浸かって暫く、隣に入りそっと呟く瑞希さんに、私は「いえ、あの時は本当がむしゃらだったので」と、恥じらい気に浴槽に顔を埋める。
 あつ湯は、外の寒さに応じて一層高めの設定であった。しかしその数分が、私には最も肌身に染みた、心地よいひと時であった。
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