二章三節 モラトリアム日和

文字数 1,680文字

 二限の選択科目憲法は、初回講義だけあって、ものの三〇分足らずで終了した。
 私は手持無沙汰に、今譜読みしている楽曲の善し悪しをメモしたノートを閉じる。正直、どれもピンとこないんだよなぁ。悩まし気にリュックを手にしかけたところで、背後から億劫そうな声音で、
「ねぇ、後期って他に何の科目を取ればいいんだっけ? 一応、これで教養科目は全て取ったはずなんだけど」
「えぇっとねぇ。私は『スポーツ科学実技』がまだ残っている……ってか、なんで三年になっても、毎日パンパンの時間割なのよ……」
 専用のケースを手にした、バイオリン科先輩の嘆きが聞こえた。彼女らは「来年は教育実習もあるし、こいつとは、今年で区切りかな」と愛用の楽器を叩くと、げっそりした顔で教室から退いていった。
「……音楽教師か」
 私は「憲法」とマーカーペンで記した自作のノートを眺める。高校時代に公民が面白かったからというノリで履修した当科目ではあるが、受講生のほとんどは教員免許希望者で、前期も方々から教職課程の愚痴・悩みを耳にした。
 私の脳内で、先程の先輩方のぼやきがこだまする。これまでは全く気にしてこなかった、学校の先生という一つの進路。途端にかつての音楽室での愉悦に満ち溢れた笑みが、フラッシュバックするように脳裏をよぎった。
「学校の先生は……無い」
 私は薄ら寒い思いで、慌てて勉強用具をリュックにしまう。と丁度その時、隣の通路から、少し鼻にかかった、すっかり慣れ親しんだ声が聞こえ、
「小川さん? あら、お疲れ様! へぇ貴女も、この講座受講してたんだ! もしかして、教職課程希望生?」
 視線を向けると、そこには大内先輩が二人の先輩を引き連れ、やや意外そうな顔で、こちらにすっと佇んでいた。
「あ、お疲れさまです! いえ、なんとなく取っている講座なんですよ……大内さんこそ、教員を目指しているのですか?」
「あぁ、そうなの……まぁ、小川さん、学校の教師って柄じゃないものね、そうよ! 卒業後もピアノを弾いていきたいけど、手段の一つとして……でも最近は子供たち相手に、音楽の魅力、面白さを伝えていく道も悪くないかなって」
 彼女がなんのてらいもなく、そう口にすると、すぐさま横にいた二人の先輩が「茜、後輩の前だからって、恰好つけちゃって」とやれやれ顔で茶々を入れる。
「ちょっ! 私だって、いくつかのパターンは考えているんだから……それじゃ、小川さん、またね! 木谷先生の合同レッスンとかにでも、お会いしましょ」
 彼女はそう口にすると、「栞奈も彩香も、余計なこと言わないでよ」と顔を真っ赤にし、出口へと去って行った。
 彼女たちがいなくなったのを確認すると、私は漸く教室から腰を上げる。
〝子供たち相手に、音楽の魅力、面白さを伝えていく道も悪くないかな〟
 先ほどそう述べた彼女の顔は、まるで漫画の主人公のように、栄えある未来を見据え、生き生きと輝いて見えた。
 叶わぬ夢を惰性で追い続けるのは止め、自分の中で四年という落としどころを作った。それはいい。
 でも。じゃあ。私はこの学校を卒業したら、一体何になるのか。すっかり人のいなくなった教室の視線の先に、たまたま目前に置かれた、グランドピアノと目が合ってしまう。
 その時、音楽祭でのティタローザの一言が思い起こされた。「どんな形であれ、ピアノは続けていくべきだと思います。せっかくの技量を、磨かず腐らせてしまうのはもったいない」
 うん、やっぱり。どんな道を歩むにしても、卒業後も少なからずピアノには携わっていきたい。
「でもそんな道、あり得るのか」
 帰り際、初めて学内の「キャリア支援センター」を訪れた。そこには小中高と各種音楽教室教師の宣伝パンフレットと共に、ヤマハやカワイといった大手音楽企業の募集要項が、何枚か掲載されていた。
 私はそれらのいくつかを担当職員からいただくと、軽く流し見しながら池袋のキャンパスを退いた。すっかり慣れ親しんだ豊島区の町並みには、爽快な秋の青空が広がっていたが、しかし私の心には、いつ晴れるともしれない鉛色の曇が、どんよりと佇んでいた。
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