第7話:戦時中の船不足で大儲け

文字数 1,248文字

 このやりとりの一部始終を見ていたジェームズ加藤は驚いた様に、
「浅野総一郎に真っ向勝負で、立ち向かい自分のペースで売買契約を決めるなんて、安田さんは、さすが原善三郎さんが惚れ込んだ商売人だと言った」その後、1911~1913年と毎年、大きな船の係留費用や職員の給料を払って赤字だけが膨らんできた。たまらず、奥さんの安田衣子が、「あんた本当に欧州で戦争が起きて船が足りなくなるのかいと疑い始めた」

 そんな1914年があけて1914年6月28日ユーゴスラビア民族主義者の青年ガヴリロ・プリンツィプが、サラエヴォへの視察に訪れていたオーストリア・ハンガリーの帝位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺した事件が起きた。これによりオーストリア・ハンガリーはセルビア王国に最後通牒を突きつけると七月危機がおこった。各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしたが、連鎖的な世界大戦を止めることができず、瞬く間に、第一次世界大戦へと広がってしまった。

 そして、それまでの数十年間に構築されていた各国間の同盟網が一気に発動された結果、数週間で主要な列強が、全て参戦した。まず7月24日から25日にはロシアが一部動員を行い28日にオーストリア・ハンガリーがセルビアに宣戦布告するとロシアは30日に総動員を命じた。ドイツは、ロシアに最後通牒を突き付けて動員を解除するよう要求、それが断られると8月1日にロシアに宣戦布告した。

 東部戦線で人数的に不利だったロシアは三国協商を通じて、同盟関係にあるフランスに西部で第二の戦線を開くよう要請した。1870年の普仏戦争の復讐に燃えていたフランスはロシアの要請を受け入れて8月1日に総動員を開始、8月3日にはドイツがフランスに宣戦布告した。独仏国境は両側とも要塞化されていたため、ドイツはシュリーフェン・プランに基づきベルギーとルクセンブルクに侵攻、続いて南下してフランスに進軍した。

 しかし、その結果ドイツがベルギーの中立を侵害したため、8月4日にはイギリスがドイツに宣戦布告した。こうして第1次世界大戦が、ヨーロッパで起こった。一方、安田家では1911年に次男の安田勝二が横浜商業学校を卒業し、その2年前に長男の安田勝一が既に横浜商業学校を卒業し、既に、安田商店を手伝っていた。1914年9月以降、船を貸して、欲しいという依頼が、安田亀吉の元に、どんどん入ってくる様になり、安い料金では断り続けた。

 思惑通り1915年の春、1万トンの船の賃料が3千円だったのが1915年の秋に1万円になり3隻とも貸し出したが、貸し船の需要は多く、休む暇なく、船を貸し出し、笑いが止まらないほど儲かった。その後、1916年にチャーター料金が3万、5万、6万円と上昇した。1917年になり一隻8万円でチャータを受けた。その後、1917年、船のチャーター料金が最高値になったのを確認し、三隻の船を売って欲しい会社に売却して最終的に50万円、現在の価値で16.25億円の儲けを手に入れた。
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