第26話:日本株の復調

文字数 1,113文字

 一方、景気の方は、やっとブラックマンデーの後、日経平均株価は下げ止まり1988年1月以降に再び強い上昇基調となり、1988年6月17日には、ブラックマンデーの終値比で29.6%も高28395円を付けてた。その後も日本株は好調を維持し、日本ではルーブル合意後、米国のドル安への配慮から利上げが遅れて、そのため株価や不動産価格が暴騰した。なぜか1984年8月17日にVZ・ベライゾン・コミニュケーション株が1989年の日本株と同じように急上昇した。

 1989年12月8日に24.53ドルを付けたので23ドルで500万株を売り11500万ドルとなり利益が7600万ドル残高が12600万ドルになり7600万ドルを安田商事ニューヨーク本社へ送金した。そして日経平均株価は史上最高値、1989年12月18日に38957円をつけ、バブル景気と呼ばれている。安田商事も日本での売り上げ好調に支えられて1989年には年間の利益が1億ドルに達した。アメリカ、欧州の海外の製品の高価なブランド品が日本で飛ぶように売れたのだった。

 しかし、新しく社長になった安田健一は、こんなバブル景気はいつまでも続かないと感じでバブル破裂に注意を払っていた。そんな時に昭和天皇が1988年9月19日に吐血し、病床について、日本中が1989年の2月24日の大喪の礼頃・天皇の崩御と葬式まで自粛ムードであり、安田健一は、ここらで日本のバブルは終了するかも知れないと感じ始めた。その後1993年に、安田正吉の所へポルトガルに住んでいた安田勝一が99歳で、1994年に安田勝二が98歳でなくなったとの知らせが入り、安田商事と親戚に連絡を入れた。

 するとポルトガルのポルトに彼らの子孫たち40名と関係者をあわせて120人が集まり盛大に葬儀をし、安田商事の先人たちの、お陰で安田商事の今があると、皆、感謝し、安田勝一、勝二の亡骸を、お見送りした。米国株の方では1990年10月26日に世界的で営業拠点を持つ米国の銀行大手、シティグループ株が下げて1990年10月26日に1株21.11ドルになり22ドルで80万株買い残金が1040万ドルになった。

 リチャードは個人資産で2073万ドルで1株22ドルで80万株を1760万ドルで買い残金が313万ドルになった。1993年10月1日に1株、106.67ドルまで上昇し105ドルで180万株を売り18900ドルとなり利益が14940ドルだった。残金が19940ドルになり14940万ドルを安田商事ニューヨーク本社へ送金した。個人では105ドルで80万株売り6640万ドルになり6640万ドルの利益で残金が8713万ドルになった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み