第44話:東北への石油輸送作戦1

文字数 1,349文字

 東日本大震災後、一番困ったことは、寒さとの戦いだった。しかし地震で輸送経路が寸断されて送りたくても遅れない状況になった。東北の寒さが厳しく暖をとれなければ生きていけない。その事態に立ち上がった男達の東日本大震災時の秘話があった。それについての実話を書く事にする。東北の3月は、石油ストーブつけずに寝ると寒くて、凍えて、場合によっては凍死してしまう程の寒さだ。そのため被災地に何とかして送らなければ、という声が日に日に高まった。道路は寸断されて使えず、船で行っても、港と使えない、飛行機でも空港が使えない。

 いろんな議論の末、鉄道を使おうと言うことになり、政府からJR貨物に東北にガソリン、軽油、灯油を送って欲しいと要請があり議論したのが、北海道から盛岡貨物ターミナル駅の輸送が考えられたが、青函トンネルの様な長大トンネルでは安全面への配慮から石油など可燃物の輸送ができない事で断念した。次に上越線で新潟から青森経由で盛岡までが考えられ、2011年3月18日、横浜市の根岸駅から岩手県の盛岡貨物ターミナル駅に向け、タンク貨車18両の石油列車が発車した。最短ルートの東北本線は地震で多くの区間が不通となっていた。

 そのため日本海沿岸を北上。青森から盛岡へと回り込むルートで19日、第1便が盛岡に到着した。21日から1日2本に増強され北東北への輸送は一段落した。これで北東北の輸送ルートは確保できた。次に南東北だ。ところが備蓄タンクのある福島・郡山へはすべての路線が断たれていて絶望的だった。JR貨物の運転士仲間の話題はいつしか郡山行き石油列車でもちきりになった。その時、JRの遠藤さんは、磐越西線ルートは、あり得ると思った。2004年の中越地震の際、磐越西線で救援物資を被災地に届けた経緯があり、遠藤さんも運転士の一人だった。

 ただ、石油列車となれば重量も重く、安全面も含めハードルは高いはず。急勾配、急カーブが続く磐越西線での大量石油輸送は非現実的に思えた。遠藤さんは国鉄時代、冬の磐越西線で客車を運転中、車輪の空転で動けなくなった嫌な思い出もあった。一方、JR貨物本社では磐越西線での石油輸送計画が固まりつつあった。根岸で石油を積んで新潟貨物ターミナル駅を経由し、磐越西線方面へ向かう磐越西線は非電化区間があるため、新潟貨物ターミナル駅で電気機関車からディーゼル機関車DD51に切り替える。会津若松駅から東側が山岳エリアで急勾配と急カーブが待ち構える難所。DD51を2台連結し馬力を倍増させるが、それでも牽引できるタンク貨車は、通常の半分、10両が限界だ。

「よし。大筋この方向で進めてくれ。運転士の確保は?」異常時対策を指揮する安田晴彦さんが運用チームに聞く。「DD51と磐越西線、両方の経験がある人が望ましい。ただ、現役でDD51を運転している人は少ないので再教育が必要だ。稲沢機関区・愛知県稲沢市で対応できる」「すぐに手配を」。そんなやり取りが続いた。「磐越西線で石油を運ぶことが決まった」。運転士が集められた郡山総合鉄道部。運転課長が計画の概要を伝える。「機関車はDD51を使うそうだ。本社からは志を持って運行してほしいとのことだ」。ざわめく会議室。運転士の選定が始まった。人選が難航した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み