第3話:生糸商人の浮き沈み1

文字数 1,182文字

 しかし、横浜生糸商人の中には、最初は、大成功しても、最後に不遇の最期を遂げるものや、生糸相場の激しい値動きで蓄えた富をはき出して、倒産する者もいた。例えば、橫浜の生糸商人の先駆けと言われる中居屋重兵衛は、以前から諸藩と関係を持ち、開店直後から会津藩・上田藩などの藩領で生産された生糸を輸出していた。安政6年、1859年、日米修好通商条約締結に伴い、横浜が開港された事から。幕府に強制的に移転させられた。

 しかし中居屋はこの機会に外国商人との日本で最高の品質と言われる上州生糸の貿易を半ば独占し、莫大な利益を上げた。横浜本町四丁目に建設した店は銅「あかがね」御殿と呼ばれるほど拡大した。敷地面積は1200坪で、安政6年、1859年6月に開店した。幕府から営業停止を受けたのは、店の屋根を銅葺きにした中居屋の店の普請があまりに華美であったことが、幕府の怒りに触れた。

 また幕府の御用商人であった三井家の資料では中居屋には奥州・上州・甲州・信州・越後の糸商人が集まり、中居屋重兵衛が、当時、幕府から違法とされていた名義を借りして外国商館に生糸を販売しており、その件が幕府に知れて、営業停止命令の前々月には中居屋の支配人が入牢させられた。だが、彼は水戸藩のシンパであり、時の大老・井伊直弼とは敵対関係にあった。そして文久元年。1861年8月2日死去。幕府の生糸輸出制限令違反で捕縛された後に獄死したとも、麻疹により病死したともされる。

 亀屋の主人、原善三郎に安田亀吉の名前が、覚えられ、可愛がられる様になり2年が経ち、1864年、したたかな原善三郎は、14歳の安田亀吉に、この店で働けと言った。その話を八王子の・鑓水の大島屋に帰った時、「安田亀吉が主人に話すと、大喜びして、頑張って来いと送り出してくれた」。

 その後、したたかな原善三郎は、信州、上州、相州、甲斐の生糸、生産農家に大島屋が顔の利く所から、良い条件を出して大量一括購入を始めた。その時に、安田亀吉も原善三郎に、言って中間マージンをいただいた上に、安田亀吉の全財産・6百円を亀屋に投資して投資比率の分の利益をくれる様に交渉すると、原善三郎が、亀屋のために一生懸命働くと言う条件付きで、許可してくれた。

 その後、安田亀吉は持ち前の記憶力で、外国人と商売する時に使う、英会話を文章ごと覚え、外国の商社の人達と交渉して有利な条件で商売する様になり原善三郎に重宝がられた。その後19歳の時、1869年に生糸の値段が大暴落して、多くの生糸を扱う橫浜の店が次々とつぶれていった。その時、原善三郎が八王子・鑓水に帰るかと安田亀吉に聞いた。それに対して、いいえ
「生糸相場の乱高下はつきもの、原先生に出て行けと言われるまで、ここにいたい」と話すと
「厳しい時期をどう切りぬけていくか、よく見ておけ」と原善三郎が大きな声で言った。
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