第27話:日本のバブル崩壊

文字数 1,700文字

 昭和が終わり、平成になった1990年以降に株価が下落し始め、バブルは終わり本質的な絶対的価値は変わらないが、相対的価値は人々の欲望で価値が乱高下する事が再確認された。値段が跳ね上がった都心、首都圏の地下が、思ったとおり急落していった。バブル当時、儲けた金で土地投資して倍々ゲームで儲けた土地成金たちが一斉に土地を売り出して売買が成立せず資産が一気に負債に変わりバブル景気は終わりを告げた。

 その後、1989年12月18日最高値の後、38957円の最高値から3年弱で1992年10月には16278円まで一気に半値以下まで急落。1991年のバブル崩壊以降、安田商事では積極的な商売を避けて地道に上客の定期訪問を欠かさずに静かに商売を継続して利益を積み上げていった。1991年3月から2001年3月迄10年間のアメリカ景気は日欧が低成長に喘ぐ中で一人勝ちの様相を呈した。好景気の要因についてはIT化、株高、労働市場の柔軟化など様々なものが挙げられている。

 しかし、それだけでなくアメリカン標準の世界標準化も要因の 1 つと考えられる。1990年代以降のグローバリゼーションの急速な進行と各国経済間の相互依存関係の深化は、各国経済構造の国際的調整を促す事になり、その過程の中で世界標準化が形成される。この世界標準化のと言うのは、実は、アメリカン標準であることが一般的に指摘された。この事はアメリカ企業にとって有利な国際競争のルールが形成されている事を意味する。したがってニューエコノミーはグローバリゼーションないし世界標準化によって実現している側面があると考えられる。

 アメリカ企業の世界標準化の掌握という側面のみが強調され標準化団体によって定められた標準規格の掌握を目指すアメリカ企業・政府の取り組みがあった。アメリカ企業は1980年代に入ってから知的所有権戦略―特許や著作権を活用して収益増大・市場シェア回復を図る経営戦略を活発化させておりアメリカ政府も競争力政策の一環として知的所有権の保護強化を推し進めてた。特許の標準化戦略は、この知的所有権戦略の一形態。1990年代のアメリカの好景気の中で経常収支の赤字が惨状を呈しているが技術貿易収支の黒字は依然として世界一である。

 つまりアメリカ企業は国際分業の中で戦略的分野で優位性をもちニューエコノミーとはもの作りではなく頭脳で稼ぐ経済構造を意味している。1993年10月1日にシティ株が1株、106.7ドルまで上昇、105ドルで45万株を売り4725万ドルとなり税引き後利益が2928万ドルで残金が3918万ドルになった。そこで1千万ドルを安田商事ニューヨーク本社へ送金した。リチャード個人でも同じ株数の売買で累計資産が6284万ドルとなった。

 1994年4月8日に世界一の規模の製薬会社ファイザー株が下がった所を見て4.7ドルで1000万株、4700万ドルで買い、残金が300万ドルになった。リチャードは個人資産8713万ドルでファイザー株1600万株買い、残金が1193万ドルになった。1994年、リチャードの次男のトーマスもサンディエゴ州立大学の電子工学部をめざして勉強をしていた。

 1994年11月、サンディエゴ州立大学に入学願書と必要書類を提出し1995年4月1日に合格したことが判明し通学用に車を買ってもらった。その後1997年5月にリチャードの長男・ハロルドがサンディエゴ州立大学の経済学部を卒業して、安田商事に入社してきて、投資部門で働き始めた。1999年5月にリチャードの次男・トーマスもサンディエゴ州立大学の電子工学を卒業して安田商会・サンディエゴ支店に入社した。

 そしてパソコンを束ねるシステム作りのためコンピューターシステムエンジニアとして活躍していくようだ。近い将来に必要となってくる安田商会の世界中の支店をつなぐ、コンピュータネットワークを構築する夢を実現させ様と思い描いていた。安田商会、サンディエゴ支店の、投資部のスタッフが8人になったので事務スタッフとして2人の女子事務員を雇って合計10人になり部屋が手狭になった。
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