第4話:生糸商人の浮き沈み2

文字数 1,156文字

 原善三郎は、生糸相場が過熱してきたと感じると生糸価格が下げ始める考え積極的な売買を控え手を出さなかった。その後、相場が下げ始めると、様子を見て、上げに転換したと感じると、静かに、買い始め、原善三郎が買い始めると、知ると、他の商人も買い始めると事になり、生糸の価格が上昇する。そして気がついた時には、一気に買いに走るという、長い商売で培った鋭い勘で、1871年に起こった、普仏戦争によるフランスによる生糸輸入停止での生糸価格暴落の時も何とか原善三郎は逃げ切った。

 3年後、安田亀吉、22歳の1872年、亀吉の資産が数倍になった。ある時、原善治郎が、それだけの資産を得たのだから屋敷を建てたり店屋を出して、商売しないのかと聞いたところ、「私は、小さい頃から質素な生活に慣れていて、この店の離れの小さな部屋で充分です」と言った。その後、1873年頃に大隈重信が民部・大蔵卿に就任して、殖産興業として西洋諸国に対抗し、機械工業、鉄道網整備、資本主義育成により国家の近代化を推進した諸政策を打ち出し、官営富岡製糸場を建てた。

 この政策を見て原善三郎は、再び生糸の価格が上がると見込んで日本中から生糸を買って、買って、買いまくった。その後、明治9年・1876年は製糸業界にとり衝撃的な年となった。原善三郎は、莫大な資産を持っており、安い時に一気に買う行動をとっていると7月の新糸相場は1梱・9貫、250円が月末には300円、9月には600円の高値を示したので、すぐに外国商人に売って、9月には,ほとんど全てを売ってしまった。

 その後10月に入ると下り始め、また、一気に原善三郎は、金にものを言わせ、生糸を買いまくった。12月には再び7月の高値に戻り外国商人に売りつけた。この10年強で橫浜商人の中でも最大の資産家となった。しかし1880年に大蔵卿が大隈重信から松方正義になって今までと真逆の緊縮財政の方針となった。徹底した緊縮財政、たばこ税や酒税を増税、軍事費以外の政府予算の縮小、官営事業の払下げ。この結果、緊縮財政により、物価が下がり始めた。

 この様子を見て、原善三郎は生糸相場が再び下がると考え、生糸の売買をしなくなり、様子を見ていた。その読み通り1884年に世界的な不景気も相まって生糸価格の大暴落が起きたが、原善三郎は、ほとんど、その影響を受けずにすんだ。原善三郎は生糸相場の値段の変動の激しさを熟知して安い時に潤沢な資金を利用して、一括買いをして、価格上昇した時に、売る方法で着実に利益を積み上げた。

 その生糸相場の乱高下で橫浜生糸商人の多くの店が倒産して、店数が減った。その中で原善三郎は生糸相場が上がり始めると見ると一気に売買をして下げ始めると、ぴたっと商売を小さくする方法で着実に稼いで、資産を増やした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み