サヨナラ、ありがとう

文字数 3,831文字

「機長の弘中から、乗客の皆様に重要なお知らせがございます」
 大阪伊丹空港発札幌行きNA82便の機中に思いつめたような男性のアナウンスが流れたのは、離陸から1時間ほどが過ぎたころだった。
 いかにも意味深な機長のアナウンス。だがそれが乗客たちに大きなインパクトを与えることはなかった。それは乗客たちが予期せぬ機長の言葉を受け止められなかったからではなく、むしろその逆に、その成り行きがすでに予期されていたからだった。
 離陸した直後から安定しなかった飛行状態、繰り返された「乱気流に入っておりますが、飛行には影響ございません」のアナウンス。まるでアナウンスを打ち消すためにわざとやってるんじゃないかと言うくらい慌ただしく操縦室と客室の間を何度も往復するキャビンアテンダント。
 言葉にしてしまうと現実になってしまいそうなので声には出さなかったが、状況が深刻であることを乗客の誰もが感じ取っていた。それは、派手なポロシャツ姿で座席に浅く腰掛け、自分の身体を抱きしめるように両腕を組んだ吉田修二にとっても同じだった。
 気を逸らすように、少し離れた席の強面でがっしりとした体格の中年男性に目をやった。上司の谷岡だった。
 職場や客先での交渉の時はあれほど頼もしく見えた谷岡の顔が、青ざめている様を吉田は初めて目にした。そのことが吉田の置かれている状況が現実であることを裏付けて、胃が締め付けられるような吐き気が吉田を襲った。
 はたして吉田が耳にしたのは、予想通りの残酷な現実だった。
「当機は現在、原因不明の機材不良により制御を失ったまま飛行を続けております。原因究明ならびにトラブルの解決に向け全力で取り組んでおりますが、この状態が続きますと墜落という最悪のケースも想定せざるを得ない状況です。
 このような状況を乗客の皆様にお伝えすべきかどうかに関しましては非常に悩みましたが、万が一のことを考えますと、皆様にはご自身の身に何が起きたのかを知る権利があるという判断から、このようなアナウンスを行わさせていただきました。
 状況の変化があり次第、適宜ご報告させていただきますが、まずはアナウンスを終了し問題の解決に専念させていただきます」
 静まり返った機内のあちこちからすすり泣きのような声が聞こえてきた。不思議なことにパニックになる乗客は現れなかった。皆がきちんと自分の座席に座ったまま、泣きじゃくるか、頭を抱えるか、呆然と天井を眺めたりした。
 吉田も呆然としたまま、機長のアナウンスについて考えを巡らせた。
 自分の命もかかっているし、機長になるくらいの人物は責任感も強いだろうから、機長が全力でトラブルの解決に臨むことは間違いないだろう。だけど、墜落が、万が一というのは噓だ。かなり高い確率でこの飛行機は墜落し、そして自分は命を落とすことになるのだ。
 吉田の脳裏に、妻と子供たちの顔が浮かんだ。単身赴任中の吉田の妻との関係は若かった頃のような恋愛関係ではとっくになかったし、思春期の子供たちはたまに家に帰っても口もきいてくれない。それでも、彼らは吉田にとってかけがえのない家族だった。
 吉田は今更ながらそのことを痛感した。
 だから、機長の言葉を合図に同じようなことを考えたのであろう他の乗客たちと同じように、吉田は手荷物からPCを取り出して、メーラーを立ち上げるとキーボードを打ち出した。
「景子。こんな形で、君にサヨナラを言うことになるとは思ってもなかった。どれだけの時間が残されているのか分からないから、本当に伝えたいことだけ伝えたい。
 俺は君とめぐり逢い結婚出来て本当に幸せだった。君と家族を作り上げることが出来て本当に幸せだった。付き合っていたころ、二人での結婚生活、隆史・彩音二人の子供たちが生まれてから、色んなことがあった。喧嘩したこともあった。でも、そんなこんなを全部ひっくるめて、俺は幸せだった。
 その幸せがこんな形で突然断ち切られてしまうことには、もちろん恐れはあるし憤りも感じる。でも、最後に自分の人生を振り返ってみたときに、幸せだったと感じられることのありがたさを噛みしめている。そしてそれは、景子、君のおかげだ。
 ところで、俺にとって何より大切なそんな景子が、俺がいなくなってから変な疑念を持ち、苦しまなくて良いように説明しておきたいことがある。
 まず、君はそもそもどうして俺が札幌行きの飛行機に乗っているのか不思議に思うだろう。今週は仕事があって家には戻れないと俺は君に連絡していたのだから。その上、さらに今の俺のこのリゾートにでも行きそうな服装を目にしたら、君はもしかしたら女性の存在を疑うかもしれない。
 俺には過去にそう言う過ちを犯して君を傷つけたことがあるのだから、それ以来俺が生まれ変わりすべてを家族のために捧げてきたことを誰よりも君が一番分かっているとはいえ、そのことで君を責めることはできない。でも、一言わせてくれ。その心配は無用だ。
 俺は仕事だと嘘を言って上司とゴルフ旅行、正確にはゴルフ+温泉+海鮮三昧ツアーに参加しているだけだ。嘘だと思うなら、28のHの座席名簿を調べてくれ。何度か君にも話したことがある、谷岡という俺の上司の名前が登録されている。
 さっきから飛行機の揺れが激しくなってきている。もう残された時間はあまり多くなさそうだ。ここで筆をおき、君たちの顔を思い浮かべながら、静かに最後の瞬間を迎えようと思う。景子・隆史・彩音、俺は君たちのことを空の上からずっと見守り続けている。本当に幸せな人生だった。
 サヨナラ、ありがとう」
 吉田はメールを送信トレイに入れると、機内モードを解除してPCを閉じた。こうしておけば、たとえ墜落という形であれ飛行機が地上に帰還すれば、メールは自動的に発信されるはずだった。
 座席に深く身体を預けた。目を閉じると家族の思い出が蘇ってきた。景子・隆史・彩音三人の顔を思い浮かべた。そして、四人目の顔が思い浮かんだ。少し化粧が濃いが、目鼻立ちのはっきりとした、男好きするタイプの若い女性の顔だった。
 しばらく考えて、吉田はまたPCを立ち上げた。
「伝え忘れていたことがある。クレジットカードの請求書のことだ。
 先月の請求書の中に、京都のホテルの宿泊費が入っているのを君が目にするかもしれない。大阪に単身赴任している俺が、どうして京都のホテルに宿泊しているのか、しかも週末に。君は不審に思うかもしれない。でも、そのことなら簡単に説明できる。
 あれは俺じゃない。いや、ホテルを予約したのは俺なんだけど、ホテルに泊まったのは俺じゃない。東京本社から出張にきた同期が、せっかくだから週末を京都で過ごしたいっていうから、行きつけのホテルを、より正確には行きつけっていうほど使ったことがあるわけじゃないけど、たまたま会員になっていたホテルを代わりに予約してやっただけだ。
 代金は飲み会の時にきちんと現金で清算した。
 これだけ、なんでもスマートフォンで手軽にできるようになっているのに、ホテルのネット予約ができないような同期を持って俺も大変だよな。
 ああ、ますます飛行機の揺れがひどくなってきた。いよいよ、お別れの時が来たようだ。離れ離れではあるけれど、君たちのことを近くに感じながら最後の時が迎えられることを幸せに思う。
 サヨナラ、ありがとう」
 吉田は再びPCを閉じて目を閉じた。万が一にも、何か抜け漏れがないか、頭の中はフル回転だった。いくつか、気になる点はあった。あったが、これ以上は蛇足になると思った。さりげなく弁明を盛り込めるのは二つまでだと、判断した。
 そんな風に自分の考えを整理してしまうと、気が楽になった。穏やかな気分だった。まるで本当に家族と一緒にいるような、そんな心持ちになることが出来た。吉田がふっと一息吐いたのと、聞き覚えがある声が吉田の耳に届いたのは、ほぼ同じタイミングだった。
「機長の弘中より、改めまして乗客の皆様にお伝えいたします。ご報告させていただきました、当機の飛行が安定しない現象についてですが、その原因が降着装置と呼ばれる着陸用の車輪部の一つが収納されていないためだと判明いたしました。
 その状態のまま飛行を続けることは非常にリスクが高い一方で、電子的に状況の改善を図ることが出来なかったため、先ほどより意図的に機体を振りきっかけを与えることで降着装置を収納することを試みてまいりました。
 そのため不快な飛行となり乗客の皆様を不安な気持ちにさせてしまいましたが、その結果、降着装置を所定の位置に戻すことに成功いたしました。
 当機は・・・、」
 感極まったような嗚咽が、マイク越しにはっきりと聞こえた。
「当機は、無事着陸いたします!!」
 一瞬の静けさの後、機内が大歓声で溢れかえった。28Hの座席に目を向けた吉田は、谷岡が頭を抱え込んで涙を流しているのを見た。その向こう側のキャビンアテンダントも紅潮した顔をくしゃくしゃにしていた。
 家に帰ろう。吉田は思った。昔みたいに妻からも子供たちからも、歓迎してもらえるわけじゃない。それでもいつも自分を温かく迎え入れてくれる家に帰ろう。吉田はそう思った。
 命が助かった。だがそれ以上に大切なものを取り戻した気がした。吉田の頬を一筋の涙が流れた。
 一時間後NA82便は無事新千歳空港に着陸した。
 そしてその瞬間、送信ボックスのメールが送信された。
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