恋するスタントマン

文字数 4,004文字

 とにかく映画が好きで、映画に関係する仕事に就きたいとずっと思っていた。
 だけど残念なことに、主役を張れるような男前じゃないし、脇を固める演技力も、脚本を書く文才も、裏方に徹せられる技術もなかった。ただ、運動神経は良かった。高いところも怖くなかった。だからスタントマンになった。
 スタントマンの仕事は向いていた。目の前の仕事を一つずつこなしていく内に、自然と業界で評価されるようになった。次第に大物と呼ばれるような監督から直接声がかかるようになった。収入も増えた。
 もちろん嬉しかった。でも何より嬉しかったのは、映画の製作に携われることだった。
 だが、知らない内に、心の片隅に小さくて暗い穴が開いていた。その穴は少しずつ大きくなっていき、気が付けば、あれほど大好きだったスタントマンの仕事を辞めたいと思うようになっていた。
 理由は色々なのだ。色々な理由が、複雑に絡み合っているのだ。ただ一つ言えるのは、映画、特に日本映画のスタントシーンにリアリティがないと俺自身が感じるようになったということだ。自分では映画に携わっているつもりでいたが本当にそうなのか、心が軋んだ。
 悩みは深かった。それでもスタントマンを辞めなかった。辞められなかった。だから長い休みを取ることにした。どこか行ったことのない国を旅行してリフレッシュしよう。そう考えたときに、子供の頃に見た映画を思い出した。
 「踊るマハラジャ」というインドの映画だ。
 極彩色の衣装やセットで繰り広げられる、ミュージカル、メロディ、コメディをごちゃまぜにした映画はとにかく構成が雑だった。一見すると主人公とは思えない、小太り中年男のアクションやダンスは洗練されているとはとても言えなかったし、随所に盛り込まれたコメディも面白さを押し売りしてくるような笑いだった。
 ただ、とにかく勢いが凄かった。今まで数えきれないくらいの映画を観てきた。その中で「踊るマハラジャ」は、完成度ではベスト10どころかベスト30にも入らないが、インパクトだけで言えば文句なくダントツだ。インド映画はすごいという強烈な印象が子供心に刻まれた。
 その印象が蘇ってきた。あんな映画を撮るくらい振り切った国を訪れてみよう。そう思った。
 俺が乗った飛行機は小さく二度バウンドして、インディラ・ガンディー国際空港に着陸した。
 小さなハプニングがいくつかあった。着陸後に到着ゲートが変更になった。空港内を走る電動カートに轢かれかけた。入国審査の指紋登録は何度やっても登録が上手く行かず、結局そのまま通された。
 どこか全てがドタバタで、なんか「踊るマハラジャ」っぽいなと思いながら、空港から足を一歩踏み出した。その瞬間、俺は「踊るマハラジャ」の世界にいた。
 そこかしこで歌いながら踊っている人がいたわけじゃない。場所だって空港だ。だが、熱気の塊のような空気、伝統的な衣装を身にまとった多様な民族の人々、そして今から正に発展していこうという国ならではの地面から湧き上がってくるようなエネルギー。それは正に、「踊るマハラジャ」そのものだった。
 タクシーに乗り込んだ。運転手にホテルの名前と住所を告げて俺がシートに身体を預けると、まるでそれが合図だったかのように、タクシーは人と車でごった返す空港を急発進した。その荒っぽさも、「踊るマハラジャ」だった。胸が躍った。わくわくした。
 ところが、そんな俺の軽い旅行気分は、タクシーが走り出してすぐの急ブレーキでいとも簡単にかき消された。
 まだスピードはそれほど出ていなかった。だけどシートベルトを締めていなかった。正確には、閉めようとしたのだが、シートベルトのバックルが見つからなかった。そのせいで、前のシートにぶつかりそうになった。慌てて、両手で身体を支えた。
 何が起きたのか、運転手に確認しようと前を見て、思わず息を飲んだ。フロントガラス越し、道路の上に混沌の空間が広がっていた。
 まず、道路のスペースに対して車の量が圧倒的だった。大げさでなく道路が車で溢れ返っていた。実際、道路のキャパシティを超えた車の流れは側道まではみ出ていた。車線は、完全に無視されていて3車線の道路に、互いに重なり合いながら5つ以上の流れが出来上がっていた。
 そして、車と車の間の隙間とも言えないような隙間を無数のオートバイがおたまじゃくしのようにすり抜けて行っていた。しかも、そんな濁流を横目に、側道では逆走している車が散見された。しかもしかも、本当に信じられないことに、あちらこちらで老若男女が軽く片手を上げるだけで道路を横断していた。
 車という車がクラクションを、人という人が叫び声をあげていた。
 目を逸らすように対向車線に目を向けると、数頭の牛が道をふさぎ、大渋滞が発生していた。そうかインドでは牛は神聖な動物だったなと納得しかけたが、道路に寝そべった牛を殺しこそしないものの、車から降りてきたドライバーたちは牛をどかせようとその尻を蹴っていた。とても、神聖な動物の扱いには見えなかった。
 まるで、出来損ないのスタントシーンだった。でもそこにはたしかにライブがあった。
 はっとした。
 俺のスタントにリアリティーがないのは、俺自身がリアリティーがないと決めつけていたからだ。だけど、それは間違いだった。だって、今俺の目の前には、リアルに息づいたスタントシーンが繰り広げられているじゃないか。俺は、俺のスタントは、映画にリアリティをもたらすことが出来る。
 俺の頬を一筋の涙が流れた。
 俺はデリーと恋に落ちた。
 その恋愛感情が、一時的な感情の高ぶりからくる、誤作動だということは分かっていた。だが、結局のところ、恋愛とはそういうものだ。
 俺が恋に落ちたことで、デリーの全てが輝いて見え始めた。そして俺はもっとデリーのことを好きになった。本来であればネガティブな評価に繋がるだろう、町中のゴミの山さえもが、退廃的で魅力的な街の雰囲気に取って代わった。
 充実したバカンスになった。
 昼から観光客が決して訪れないような場末の飲み屋で酒をくらい、初めて会った言葉の通じない友人たちと飲み明かした。身体能力を活かし、忍び込んだ遺跡で日本では見たことのないような大きな月を見ながら瓶ビールを傾けたりもした。
 全てが楽しくて、時間が経つのが早かった。
 その日も、気が付けば、日付変更線を超えて飲んでいた。支払いをしたかどうかも分からないくらい酔っていたが、俺が右手を上げながら立ち去ろうとすると、屋台の店主は笑いかけながら、ヒンズー語で送り出してくれた。
 ホテルに帰ろうとした。自分がどこにいるかは分からなかったが、問題なかった。ウーバーでオートリクシャーと呼ばれる三輪タクシーを手配すれば、会話しなくてもホテルまで乗せていってくれる。スマホで、検索すると近くを走っているオートリクシャーが何台も表示された。
 一番近くの一台を選ぼうとして、ふと財布の中を見た。現金が足りなかった。弱ったなと思っていると、スマホの画面の下の方に、別のプランが表示されていることに気が付いた。オートリクシャーより安かった。財布の現金で足りる値段だった。
 オートリクシャーより安いプラン?訝しく思いながらクリックすると、バイクの写真が表示された。
 インドはバイクが多い。東南アジアのようにスクーターも多いが、跨いで座る日本で言うオートバイ型のバイクが多い。
 バイクに複数人、時には家族全員で乗車して移動しているのはインドでよく見る光景だ。バイクならオートリクシャーより安いはずだ。と、納得した。で、悩んだ。思い浮かべたのだ、バイクに二人乗りし、運転手に抱きつく自分の姿を。
 外はいつもの暑さだ、お互い様だが、汗だってかいている。この状況でインド人男性に身体を密着させる。正直、嬉しくなかった。というか、嫌だった。
 どうしようと悩んだ。朝まで飲み明かそうかとも考えた。だが、そんな俺の視界の先を野良犬の群れが横切った。デリーの夜は、野犬の世界だ。命には代えられない、そう決心した。
 プランを選ぶと、すぐにマッチングが成立した。3分後に到着と表示された。待っている間も色々と考えた。どうやったら、身体同士の接点を減らせるか、運転手の体臭をできるだけ嗅がないようにするにはどうすれば良いか。
 解が見つからないまま、目の前に中型のバイクが止まった。ナンバープレートを確認する。手配したバイクだった。面積の小さなランニングから二の腕を突き出した運転手は、がっちりとした体格で良く日焼けした、いかにもインド人らしいインドだった。スマホに表示された、暗証番号を伝えると、後ろに乗るように顎で指示された。
 恐る恐る、バイクの後部座席にまたがった。後部座席のシートを掴もうとすると、ジェスチャーで腰に手を回すよう指示を受けた。他の選択肢はなかった。半ばやけくそで、思いっきりしがみついた。
 肌が触れた。感触が日本人のそれと違った。麻布を思わせるような、少しざらついた肌。少し汗ばんではいたが、どことない冷ややかさを感じた。体臭はあった。だが、それは体臭というよりも、この街で嗅ぎ慣れたスパイスの香りだった。俺が恋したデリーの匂いだった。
 俺がしがみつくやいなや、バイクは夜の街に駆け出した。
 走り出してすぐに、普段からバイクに乗っている俺には、運転手が腕の良いバイク乗りだということが分かった。体重移動をする感触で、運転手にも俺がバイク乗りであることが分かったはずだ。阿吽の呼吸でバイクはますますスピードを上げた。
 真夜中だというのに車の数は多かった。それでも、バイクはスピードを落とすことなく、猛スピードで車と車の間をすり抜けて行った。
 俺は俺の両腕にさらに力を込めた。バイクと運転手、そして俺が一つになった。
 胸がきゅんとした。
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