自分のいびきで目を覚ます

文字数 3,022文字

 ンゴゴゴという地響きのような音で、飛び起きた。すわ地震かと、慌てて辺りを見回した。だが、高速道路沿いの単身赴任のマンションのワンルームに変わった様子はなかった。カーテンの脇から、早朝の薄い光が差し込み、数秒間隔で車が通りすぎる音がかすかに聞こえた。
 ほっとした。そう言えば、今日は土曜日だったなと思いだして、ちょっと得した気持ちになった。
 それから、自分が飛び起きたという事実を思い出し、まだよく回っていない頭でその理由を考えた。そして思い至った。 
 自分のいびきで目を覚ましたんだと。
「自分のいびきで目を覚ます」
 声に出してみると、因果応報を説くことわざのような語感がして、思わずニヤリとした。
 いびきをかいたのは初めてじゃないはずだった。いや、東京の自宅にいたときは、俺のいびきで眠れなかったと、嫁さんの裕子に文句を言われることがしょっちゅうあったから、いびきをかいたのが初めてじゃないのはたしかだった。だけど、自分のいびきで目を覚ましたのは、これが初めてだった。
 50歳を目前にして、初体験って言うのはなかなかない。俺は今日人生で初めて、自分のいびきで目を覚ました。そう思うと、晴れのち曇り予報のごくありふれた土曜日が、どこか特別な土曜日に感じられた。
 そんな特別感のせいかもしれない。どこか感傷的な雰囲気の中、ベッドに寝ころんだまま見上げた天井が、子供の頃、親父とお袋と三人で川の字になって寝ていた実家の天井に重なって見えた。昔の実家の匂いが鼻を衝いた。
 親父のいびきも思い出した。親父のいびきは、さっきの俺のいびきにそっくりで、親子って言うのはいびきまで似るのかと考えたら、なんだか不思議な気がした。
 来週の父の日には、電話でもしてみようかなと、思った。そんなこと一度もしたことがないから、びっくりするだろう。さすがに、親父も40年近くも前の自分のいびきがかけさせた電話だとは思わないはずだ。電話の向こうの親父の訝しそうな表情を想像すると、また笑えてきた。
 そのとき、ふと一つの疑問が、思い浮かんだ。人のいびきで眠れないって言うのはよく聞く話だが、自分のいびきで眠れないって言う話は、聞いたことがないな、と。
 生産性のある話に繋がるはずがないのは分かってた。土曜日の朝くらい、生産性を追求する必要もないだろうと思った。そもそも、自分自身が、世界の中の生産性とは無縁の部分に生きがいを感じる人間だという自覚もあった。
 いくつか、仮説を立てた。
 まず、いびきには指向性があるという説。いびきが発生源から前にだけ直進する指向性を持った音波であったとすれば、いびきが口から出てるのか鼻から出てるのかは知らないが、発生源である俺の耳には届かないということがあるかもしれない。
 次に、備えあれば患いなし説。いびきはくしゃみと違って、いきなり出ることがない。気がする。何と言っても俺自身から発せられているのだから、当然のことながら俺はいびきが発生するまえに、何らかの予兆を感じているはずだ。どんな鋭い切れ味の技だって、来るのが分かっていれば受け身は取れる。
 それから、いびきは眠りが深い時に発生する説。別名、いびきはノンレム睡眠時にのみ発生します説を経て、最後に思いついたのが、いびき=おなら説だった。
 おならというのは不思議なもので、人のやつを嗅がされるとひどく不快だが、自分のおならは全く気にならない。じゃっかんの温かみと愛らしさすら覚えるほどだ。まあ、つまりは、いびきもそんなもんだ、というわけだ。
「自分のおならは臭くない」
 せっかくなので、声に出してみた。残念ながら、「自分のいびきで目を覚ます」ほどの深みは感じられなかった。
 結局答えは、出なかった。ただ単身赴任のいびきの寂しさに気付かされただけだった。
 今日はたまたまなんかの理由で、俺がすくい上げた。でもいつもだったら、俺のいびきは、この世に生を受けても、誰の耳にも届かないまま、このワンルームマンションの空気の中に吸い込まれ人知れず消え去っていたはずなのだ。
 それが俺に突き付けられた現実だった。
 もののあはれだと思った。人に必要とされないどころか、人に気付かれることさえない存在。でもそれは、俺のいびきだけじゃなくて、俺自身もそうなんじゃないか、そんな、どうしようもなくやるせない感情がこみあげてきた。
 日曜日の夕方に取っておきたいような後ろ向きな感情の捨て場を探していて、一人の女性の顔に行き当たった。裕子だった。
 その瞬間に伝えたい言葉がこみあげてきた。でも夜明け前は電話をかけるには早すぎて、今から駆け付けるには東京は遠すぎた。だから俺は、枕もとのスマホを取り上げて、メッセージを打ち込んだ。
「裕子。おはよう。
 土曜日の朝早くに珍しく目が覚めたので、たまには業務報告(^^;)以外のメッセージということで。
 単身赴任を始めて一年半。ようやく、生活は落ち着いてきた。洗濯・掃除、食事もコンビニ弁当ばっかりじゃなくて自分で作るし、後片付けもやる。仕事から帰って、家事をこなすのは大変だけど、なんとか頑張ってやってる。
 あ、もちろん、家事をして彰や翔子の世話をしてパートにも出てくれている裕子に比べたら、大したことじゃないのは分かってる。あ(二回目)、先週頼まれてた、彰の授業料の振り込みは忘れてないよ。他の支払いと一緒にやった方が良いかなと思って、たんだけど、ネットバンキングだから一緒だよね。はは。
 ところで、さっき、今日珍しく朝早くに目を覚ましたと書いたけど、正確には、今日俺は起こされた。別に誰か隣で寝てるわけじゃないから、ご心配なく(笑)。俺を起こしたのは、俺のいびきだ。そう、裕子がいつも雷のようだと文句を言ってたいびき。俺には雷みたいに聞こえたというよりも、地震みたいに響いた。多分音源(というか震源)が俺自身だからなんだろう(苦笑)。
 それはともかく、詳細は省くけど(いつも裕子に話が長いとか、話が脱線ばかりとか、注意してもらっているので、あ、これも脱線か・・・)、いびきについて考えてるうちに、俺気が付いたんだ。俺のいびきって、裕子が聞いてくれてるから、いびきとして存在できてるんだって。もっと言えば、裕子がいてくれてるから、俺の家族は、俺は存在できてるんだって。
 近くにいないと分からないこともあるけど、遠く離れて暮らすからこそ分かることがある。隣にいると恥ずかしくて言えないけど、遠く離れて暮らしているからメッセージで伝えられることがある。
 だから土曜日の朝に、一言だけ書かせて欲しい。
 いつも、俺の隣にいてくれてありがとう。
 いつも、俺のいびきを聞いてくれてありがとう」
 思いの外、長いメッセージになった。思いを込めた長いメッセージになった。
 ほっと息をつくと、温かな気持ちで胸が一杯になった。このまま幸せな雰囲気に包まれて、二度寝しようと思った。何と言っても今日は土曜日なのだ。
 目を閉じた。すぐに、眠りに落ちる直前の、脳が溶けるような感触がやってきた。ところがその瞬間、耳元でスマホが震えた。目をやると、薄暗い部屋の中で、スマホが着信を伝える光を放っていた。
 どこか穏やかな気持ちでスマホを手に取った。
 思った通り、裕子からの返信だった。短い、でも俺が送ったのと同じくらい、裕子の気持ちが込められたメッセージだった。
 そこには、たった一言。
「知るか」
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