君のサラダが食べたい

文字数 3,918文字

 インドに長期出張することが決まった時、周りの反応に驚かされた。
「大変だろうけど、頑張れよ」
「まだまだ水が危ないらしいから、口にするのは必ずミネラルウォーターで」
 普段はあまり会話しないような人たちも含め、ほんとに多くの人から声をかけられた。わざわざそのために、事務所の席まで来てくれた人も一人や二人じゃなかった。
「海外の経験が少ないお前を一人でインドに送り込むなんて、俺が部長に一言言ってやる」
 同期の新山に至っては、そんな風に俺のために憤ってくれ、引き留めるのに苦労したほどだった。
 ありがたかった。ただ、そんなこんなで不安になった。
 え、インドってそんな危ない所なの?
 新山も言っていたように、俺には海外の経験が少ない。それは仕事に関してだけではなくて、プライベートでもそうだ。大学時代の連れの中には、バックパック一つ背負って、世界中を旅して回るような奴が何人もいたが、俺はバイトと合コンに明け暮れていた。
 俺が生まれ育ったのはごく普通の中流家族で、他の家のことは分からないが、そこでも海外旅行の計画が持ち上がったことなんて一度もなかった。強いて言えば、嫁さんの希望で新婚旅行でハワイに行ったくらいだ。
 海外に興味が無いのだ。だから、アメリカとかヨーロッパに関してすら、ほとんど知識がない。いわんや、インドをや、みたいな感じだ。なんて、ほんとはアメリカとヨーロッパのインドのメジャー度すらよく分かってない。
 ただ、周りの反応から推し量るに、インドという国が日本人にとってはまだまだ馴染みが深くなく、生活環境に関して数多くの課題を抱えているということは、どうやら確かそうだった。
 そもそもインドに対するイメージがなかっただけに、こういう周囲からの情報は俺に突き刺さった。その突き刺さり方は色々だった。もちろん、深刻な情報ほど深く俺に突き刺さった。だが、それ以上に、その突き刺さり方を左右した要素がある。
 それは、その人が俺にインドに関して忠告なり激励なりアドバイスをしてくれる時の態度と、普段俺に接している態度のギャップだ。
 例えばあまり仲が良くない人が心配してくれたり、逆に新山みたいに仲が良くて普段はふざけた話しかしないような奴が妙に真剣だったり、そんな風にギャップが大きいと、内容以上にその言葉や情報は俺に突き刺さった。 
 そんな情報の中身と態度のギャップを掛け合わせてはじき出されたランキングは、それまでの俺の人間関係に関する俺自身の認識とは絶妙な隔たりがあって、三杯目以降のグラスを傾けながら眺めるのにちょうどいい程度に興味深かった。
 混沌としたランキング。ただ、一位はぶっちぎりだった。コメントの中身・頻度、そして何より普段の態度とのギャップから、二位以下を圧倒的に引き離していた。嫁さんの貴子だ。
「え!インド!?」
 最初に、出張が決まったことを報告した時の夕食の席での、心の底から驚いたという貴子の表情が忘れられない。
「いや、ただの出張だから」
 この時はまだ、インドに関する膨大な情報や噂に晒される前だった。だから、貴子がどんな反応をするのか想定していなかったこともあって、そのリアクションの大きさに驚かされた。ただ、日々研ぎ澄まされているセンサーが作動して、自然とフォローの言葉が口をついた。
「あ、それに、仮に将来的に出張以上の話があったとしても、貴子は仕事があるから、帯同して欲しいって言えないのも分かってるから」
「別に、そういうことを言ってるんじゃなくて、智樹の身体のことが心配なだけ」
「え、」
 真剣な顔でそう言った貴子に、さっき以上に驚かされた。おれの「え、」は貴子の「え!」と比べたら、デシベル的にはかなり控えめだったが(ここでもセンサーが作動していた)、その言葉が持つエネルギー量の大きさから言えば、俺の圧勝だったに違いない。
 とにかく、そこには俺のことを本当に心配している感があふれ出ていた。
 そんな感、あふれ出るどころか、漏れ滴り落ちてるのすら見たことがなかった。
 普段は、あんなきつい態度で接しているけれど、本当は俺のことをそこまで大事に考えてくれてたんだ。
 驚きの後、胸が熱くなった。胸が熱くなった後、いやいやこれは、突然のニュースによるショックから来る一過性のもので、すぐ元の貴子に戻るに違いない。あんまり喜びすぎると、後の振り戻しが大きいから、とりあえずは一過性のものと理解しておいて、心の中の感動的な一瞬棚に片づけておこう。そう思った。
 ところが、その日以降も、貴子の態度に変化はなかった。
 インドのことを色々と調べて、サプリメントやら、蚊を寄せ付けない携帯電動線香やらを買ってきては、せっせと俺のスーツケースにパックしてくれた。一人での長期滞在は退屈だからと、海外から日本のサブスクが見れるようになるVPNサーバーに加入したいと駄目元でお願いしたら、それも何と月々のお小遣いとは別枠で許してくれた。
 極めつけは渡航当日だ。仕事があったから羽田空港まで見送りはしてくれなかったけど、最寄り駅まで見送ってくれて、しかも別れの場面では、俺の手をぐっと握って。
「無事に帰って来てね」
 と、目を潤ませながら言ったのだ。
 さすがに、ここまでくると、鬼の目にもなんて冷やかしの言葉すら出なかった。ただ、貴子のことを愛おしく思い、同時に俺死ぬんかなと覚悟した。で、気の迷いとは知りつつも、このまま死んでも良いかなと思ったりもした。
 そんな、幸せと呼んでよいのだろう感情を抱えたまま飛行機の中で約10時間の時間を過ごし到着したインド・デリーは、まんまだった。
 散々脅されて(善意からだけど)、覚悟していた以上にひどかったというのでもなく、覚悟していたほどはひどくなかったというのでもなく、みなから聞かされていた通りのインドがそこにはあった。ある意味それは、映画の世界を忠実に再現した、ディズニーランドに足を踏み入れた感覚に近かった。
 街はビルの建設ラッシュでものすごい勢いで成長していた。ただ、大通りから一歩外れると、そこにはスラムのような世界が広がり、牛と野良犬が辺りを徘徊し、街は何をしているのか分からない人で溢れ返っていた。
 交通ルールという言葉は存在せず、巨大な道路を埋め尽くした二輪、三輪、四輪の自動車は車線を守らないどころか、逆走すら当たり前で、それがある意味ルールなのか、自分のポジションを知らせるためにとにかくクラクションを鳴らすものだから、一瞬でも静かな時間が訪れると、不安になるほどだった。
 そんな道路を、大通りでも何の躊躇もなく、老若男女、民族衣装の子供もスーツを着たビジネスパーソンも、前後左右から迫りくる車の隙間を縫って普通に横断していた。自分の渡りたい場所を、渡りたいときに。
 それは衝撃的な光景で、俺は人の命の価値について考えさせられた。もちろん、それは世界中のどこでも絶対的には変わることがないはずのものだ。だが、この街ではそれが、本人も含めて相対的に軽く扱われているように感じられたのだ。
 皮肉なことに、何も聞かされていなかった空気汚染ですぐに喉をやられた一方で、一番聞かされていた重度の下痢の洗礼はまだ受けていない。ただ、インド人と話をしていても日常的に起きているらしいので、来たばかりで注意できているのと、たまたま今のところは運が良いだけのことなのだろう。
 とにもかくにも、まだまだ出張は続く。今のところは何とか生き延びている。でもそれは、実は人生も、日本での生活でもきっと同じなのだ。ただ気が付かないだけで。
 そんな俺らしくもないことを考えるのは、インドでの生活に潜む各種の脅威に備えて、無意識の内にいつもは使っていない色んなセンサーやプロセッサーを稼働させているせいだ。
 だから、肉体的なダメージ以上に疲れる。だから、すっかり優しくなった、貴子にも弱音を吐いた。
「声はちょっと枯れてるけど、何とか今日も大丈夫そうだね」
 二日に一度のスマホコール。その日も貴子は優しかった。
「まあ、まさに、何とかやってるって感じかな」
「ほんと、無理しないでね。で、一番何が大変なの?」
 それまでは、何が一番大変かなんて、考えたこともなかった。ところが、その質問を聞いて、すぐに思いついた答えが口をついていた。
「生野菜が食べられないことかな」
「生野菜?だって、日本だとサラダ出したって、全然食べてなかったじゃない」
「そうなんだよ。それが食べられないとなると、急に食べたくなる。ないものねだりって言うのもあるけど、それ以上に、その大切さに今まで気が付いてなかったって感じが近い」
 その言葉を口にしている内に、なんだか訳のわからない感情が湧き上がってきた。もしかしたら、それはどんな感情でも良かったのかもしれない。その瞬間、きっと俺には感情を吐き出すという作業が必要だったのだ。
 そして、水嵩の減った感情の泉の底から、俺はもう一つの感情を拾い上げた。
「貴子のこともそうだ」
「私?どういうこと?」
「日本で一緒に生活している時は、その優しさとか大切さに気が付けてなかった。でも、今こうして東京とデリーで離れて暮らしていると、貴子が俺にとってどれだけ大切な存在だったのか、すごくよく分かった」
 短くない無言の時間が流れた。
 でもそのとき、数千キロ離れた場所にいる貴子と俺はしっかりと繋がっていた。目には見えないそんな繋がりに向かって、空中に手を伸ばした俺の耳に貴子の声が届いた。
「つまり、日本にいたときは、私の大切さに気付いてなかったってことね」
 スマホ越しに、以前の貴子のトーンが顔を覗かせた。
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