御器齧り

文字数 2,553文字

「日本の最高学府たる大学で言語学を学ぶ皆さんには、言葉の持つ影響力の強さと物事の本質について考えるということを、きちんと理解してほしいと思います」
 三十人ほどの生徒を前に上野教授は、話し始めた。
「そのために今日取り上げたいテーマは、最近の若い人たちの間ではGと呼ばれることもある、ゴキブリです。今私が、ゴキブリという名前を出したとき、それだけで嫌そうな顔をした方が多くいましたが、恐らく無数と言って良いほど種類が多い虫の中でも、一二を争うくらいに嫌われている存在だと思います。
 ところで、先ほど私はゴキブリに関し、Gと呼ばれることもある、と述べましたが、このGという呼称自体にも、ゴキブリに対する人々の感情が反映されています。ゴキブリというたかだか四文字、しかも発音が難しくもない言葉を何故省略する必要があるのか?
 それは人々が、ゴキブリという名前を口にしたくすらないからに他なりません。
 誰か・何かの名前を口にしたくない理由というのには、大きく分けて二つのケースがあります。まず第一に、その対象物が忌み嫌われているケース。そして、もう一つが、畏怖の念を抱かれているケースです。
 後者をもう少し詳しく説明すれば、その名前を口にするだけで恐れ多いとか、危険があるといったことです。例えば、災いを運ぶと特定の部族に信じられている神の名前であったり、秘密組織のボスとかがそれに該当します。Mr.Xみたいなやつですね。
 つまり、この二つのどちらかに該当する場合、人々はその名前を口にすることすら厭い、代わりに省略形を用いるわけです。まあ、ゴキブリの場合は、忌み嫌われていると恐れられているが同居している稀有なケースなのかもしれませんが。
 いずれにしても、このゴキブリという名前ですが、どうですか皆さん。何とも言えない、嫌な響きじゃありませんか?もし、皆さんがゴキブリという虫の存在を知らなかったとして、この名前を聞いたとしても、きっとそこにネガティブなニュアンスを感じ取るはずです。
 これはゴキブリという単語が、ゴとブという二濁音でそれぞれの音節が始まり、リという断定系の音で締めくくられる形で構成されているからです。
 ところで、そんなゴキブリの不快感を引き出す名前。その名前の由来を知っている人は、皆さんの中にいますか?いないようですね。一般的にも、あまり知られていないことですが、ゴキブリは元々ゴキブリと呼ばれていたわけではありません。
 ゴキブリは、古くは平安時代の書物にも登場します。当時は阿久多牟之と書いてアクタムシと呼ばれていたようです。その後、時代とともに、その呼び方も変遷を遂げるわけですが、ゴキブリの直接の語源となる呼び方が登場するのは、江戸時代になってからのことです。
 当時の百科事典である「和漢三才図会」に出てくる、ゴキカブリがそれです。漢字では、御器齧りと書きます。蓋つきのお椀、「御器」に齧り付く様から名づけられたものと考えられます。
 ゴキブリと御器齧り、音にすればわずか一音の違いです。ところが、その名前から皆さんが受ける印象は大きく変わったと思います。
 ゴキという無意味でただ美しくない響きだけの音節に、お椀という意味が与えられた、しかも御という敬意や丁寧さを表す語が付して与えられたことで、得体が知れないところからくる不気味さが排除されたこと。ブリという音節にも同様に、齧るという動詞からユーモラスな動きが加えられたことが、その理由です。
 私がここで指摘したいのは、名前に対する印象が変わったことで、皆さんのゴキブリに対する印象も影響を受け、変化しているということです。しかも、名前に対する印象の変化の中身と、その本体に対する印象の変化のトレンド、質は極めて合致しているはずです。
 その呼び名を変えるだけで、私たちの目の届かないところで蠢く謎の虫ゴキブリが、愛らしい動作で食器に齧りつく、犬や猫といったペットと同じ私たちの共生のパートナー、ゴキカブリに変貌を遂げる。
 ゴキブリがゴキブリであることに変わりはないのに、です。
 これはゴキブリに限ったことではありません。物事そのものが全く同一であっても、名前や表現一つで、印象が変わる。そのやり方次第で、第三者の印象を、こちらの思惑通りに操作することすら可能です。言葉には、それだけの力があるということです。
 言葉の専門家になろうとしている皆さんに、私は言葉の持つ力が最大限発揮されるような術を授けたいと考えています。
 ただ、それと同時にそんな言葉というパワフルなツールの持つ価値と脅威をきちんと伝えることもまた私の務めです。いや、もしかしたら、そちらの方がより大きな責務と言って良いのかもしれない。
 そして、言葉が強い力を持つツールだからこそ、真の言葉の専門家になるために、皆さんには、まず言葉に踊らされることなく物事の本質を見る目を養ってもらいたい。それが、本日の授業における、私から皆さんへのメッセージです。
 何か質問や、意見はありますか?」
「先生」
 一番、最前列で熱心に聴講していた一人の女子生徒が手を挙げた。
「はい、若林くん」
「今の先生のお話のポイントは、言葉の影響力と、言葉と物事の本質の関係性だと理解しました。そして、その例として、ゴキブリがその名前のせいで嫌われているという説を、挙げられました。
 でも、そもそもゴキブリが嫌われる理由って、あの見た目とか、動き方にありますよね。少なくとも私は、艶々と黒くて、猛烈なスピードでシャカシャカと台所の陰から陰へと移動して、追いつめられるとこっちに向かって飛んでくる、あの虫のことが、ゴキブリだろうとゴキカブリだろうと、名前なんて全く関係なく大嫌いです。
 って言うか、御器に齧り付いている御器齧りを想像して、もっと嫌いになりました。愛らしさを感じるなんてもっての外で、鳥肌が立ちました。
 なので、先生のお言葉を借りれば、今の先生のお話こそ、物事の本質を見ていないように思えるのですが、いかがでしょうか?」
 老年の大学教授らしく、生徒からの反論にも大きく表情を変えることなく、ただ小さく二度瞬きをして上野教授は答えた。
「・・・まあ、たしかに本質はそこではないかもしれないね、本質は」
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