家族になろう

文字数 3,488文字

 リビングルームのソファで横になっていた。暖房は切っていたが、窓から差し込む日差しは温かく、昼間から飲んだワインのせいもあって、心地良くうつらうつらしていた。
 ダイニングでは、娘の知花と女房の由紀子が、知花がお土産で買ってきたケーキを食べながらおしゃべりをしていた。つい先日まではありふれたものだった週末の一場面が、日常生活の中の小さな、それでも特別な瞬間になっている。そのことが感慨深かった。
 知花は、先月結婚して家を出た。
 結婚してから何度か転勤したが、いつも家族は帯同してきた。知花は大学も卒業後に就職した会社も、家から通っていた。だから、知花の存在が無くなるのは、我が家にとって知花の誕生以来、つまり26年ぶりの出来事だった。
 結婚したいと初めて知花から聞かされた時は正直驚いた。そんな相手がいるなんて全然知らなかったし、それ以前に、いつまでも子供だと思っていた知花が結婚するということがイメージできなかった。
 そのせいで、相手の隆信くんが挨拶に来たときは、なんだかドラマのワンシーンを演じさせられているような変な感じだった。隆信くんが緊張していたことも、そんなドラマのワンシーン感に拍車をかけた。最初の内は、お互いにありもしない台本を棒読みしているみたいに会話が進んだ。
 ただ、本当にありがたいことに、隆信くんは男親の私から見ても、良い奴だった。別に、そんなに何回も会ったわけじゃないし、彼のことを深く知っていると言うつもりもない。ただ、仕事で、若い連中もたくさん見ているから、人となりみたいなやつを見る目はあるつもりだ。
 隆信くんは、派手ではないけれど、きちんと自分を持っている若者だった。服装には清潔感があった。家の玄関では、今時珍しく、折り目正しい挨拶をした。何よりも、知花のことを大切にしてくれそうな男性だった。
 隆信くんと会って話をして、急に知花が結婚するんだという実感が湧いた。良い人を見つけてくれたと、嬉しかったし、ほっとした。人生の大きな仕事の一つをやり遂げた気分だった。
 そこからはあっという間だった。隆信くんのご両親と顔合わせをし、結婚式の日取りが決まり、花嫁の父親として結婚式に出席し、そして知花は隆信くんとの新居に引っ越していった。
 知花が家を出たその日は、やっぱり寂しかった。決して広くはない3LDKのマンションは、部屋が一つ空いただけで急に広く感じられた。家族の中にもぽっかりと穴が開いたような感じだった。今でもまだ、そんな新しい家族の形に慣れたとは言えない。
 だけど今日、改めて幸せそうな知花を見て、その穴に温かなものが満たされるような気がした。やっぱり良かった。うつらうつらしながら、幸せを噛みしめていた。
 一方で、由紀子と知花のおしゃべりは、俺がいなくなったことでより盛り上がっていた。ガールズトークと言うのもおかしいが、女性同士だけの方がやはり話しやすいのだろう。隆信くんのことも、由紀子はもっと前から知ってたし。なんて、独り心の棘を蒸し返している私の気持ちに気付きそうな気配は微塵も感じられなかった。
「で、どうなの、新婚生活は?」
 少し冷やかすように由紀子が言った。
「うーん、どうだろう。まだ一ヶ月くらいだし、結婚したという実感があんまりなくて。毎日、家に隆信さんがいるのが変な感じ」
「生活の方はどう?旅行とは違って、家事とかやらないといけないことがたくさんあるから、大変でしょう。あなたは、ずっと実家暮らしで、あんまり手伝いもしてこなかったし」
「それは、ほんと後悔してる。し、お母さんに申し訳なかったと思う。でも、隆信さんは大学時代から一人暮らししてたから何でもできるし、家事は夫婦で分担してやるものだっていう考え方だから、そこは助かってる。それどころか、料理が趣味の一つだから、今の週末の楽しみは、ちょっと贅沢な材料とワインを買って隆信さんの手料理を食べることになってるくらい」
「へえ、今風ね!」
 話が変な方に転ばないか一瞬どきりとしたが、幸いなことに由紀子の口から「それに比べて」が続くことはなかった。
「でも、色々家事をしてくれるんだったら、逆にこういうのはない?例えば、洗濯だったら、洗い物の分別から、干し方、畳み方まで、一つ一つ、その人なりのと言うかその家なりのやり方があって、それぞれ違うでしょ。そんなとき、やっぱりどうしても慣れ親しんでいる方が良く思えて、相手のやり方を変えさせようとしてそれがお互いのストレスになったりするって言うのは?」
「ああ、それもないかな。私はあんまりこだわりがないし、隆信さんは家事に興味があってそもそも好奇心が旺盛だから、面白いみたい。それこそこの間も、私の靴下の畳み方が珍しかったみたいで、メリット、デメリットを考察して、楽しそうに話してくれた」
「なんだ、結婚生活の先輩として相談に乗ってあげようと思ったのに順風満帆じゃない」
 いかにも残念そうな口ぶりだったが、由紀子の言葉からは、安堵感がにじみ出ていた。
「そう・・・、なんだけどね」
 私も、やれやれ午睡を楽しもうかと思った正にその瞬間、知花の口から漏れた不穏なニュアンスに、眠気が一気に飛んだ。
「え、なんか問題があるの?」
「別に問題って言うほどのことじゃないんだけど。ただ、ちょっと自信がないなって」
「自信って何の?」
「家族になる、自信が」
 意外な言葉だった。詳しく聞きたいと思った。だが、ここで私が首を突っ込むとこの話題自体が終了してしまうに違いなかった。だが、もどかしさを覚える間もなく、由紀子がまさに私が言いたかったトーンで話を継いでくれた。このあたりはさすがに30年寄り添ってきただけはある。
「家族になるって、どういうこと?」
 ほんと、どういうことだ?結婚したら、もう家族だろう。
「さっきも言ったけど、あんまり結婚したって実感がないの。付き合うのと結婚は全く別物だから、苦労することもたくさんあるって覚悟してたのに、それも全然ないし。なんか、旦那さんって言うよりも彼氏とずっと一緒にいるみたいな感じなの」
「良いじゃない」
「それが良くないの。だって、自分の好きな人と一緒に生活してるんだよ」
「何が駄目なの?」
 何が駄目なんだ!?
 戸惑う両親に、私にとっては既に懐かしくも、自分の言いたいことが相手に伝わらないときのいつもの、もどかしそうな感じで知花は説明した。
「気を使うじゃない。家族って、一番素の自分をさらけ出せる相手のはずだよね。でも、それが恋愛対象のままだと、どうしても良く見せたいって言う気持ちが働いて、家に帰っても心の底から落ち着けないの。おなら一つにしたってさあ、お父さんもお母さんも家の中では当たり前みたいにしらーって感じでしてるし、私もしてた。でも、今はさあ、音が出ないようにお腹に力入れたり、音が出そうだったらトイレに駆け込んだり、おならのことが隆信さんにばれないように必死なの」
「つまり・・・、おならがしたいっていうこと?」
「おならは一例!要は、ありのままの自分で入れる場所が家族だと思うんだけど。そうなってないってこと。って言うか、そうなれるとは思えないってことなの。そう思うと、うちだけじゃないんだけど、ほんとお母さんもお父さんもすごいって思う。だって、言っても親子は血が繋がってるわけだよね。でも、夫婦は赤の他人だよ。そんな赤の他人同士が、ちゃんと家族になってる。私もね、隆信さんとうちみたいな家族を作りたいの。でも、その道のりはまだまだ長そうだなって。それが、まあ悩みって言ったら悩み」
 おなら一つから、随分と話が飛躍したなと思った。相変わらず説明が下手だなと笑おうとした。
 それなのに、なぜだか目頭が熱くなった。知花が、私たち家族のことをそんな風に考えて、由紀子と私のようになりたいと言ってくれている。そう思うと、鼻先がつんとした。
「まあ、夫婦の関係は、男女の関係であって、男女の関係じゃないから」
 やはり、由紀子も同じように感じたのだろうか。その言葉は、どこか感慨深げだった。
「お母さんとお父さんは、どうだったの?結婚してからも、しばらくの間はやっぱり、男女の感じが残ってた?」
「言われてみると、最初の頃はちょっとはそういうのがあったかもしれないけど、ほんとすぐに恋人同士って言うよりも家族って感じになったわね」
「うわー、すごい。最初の頃からちゃんとできてたんだ」
 心の底から感心している風な知花の言葉に、少し食い気味に由紀子がぽつりと呟いた。
「本当は、ずっと男女の関係でいたかったんだけどね」
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