喋らざる者

文字数 3,947文字

 取引先との交渉は長時間に及んでいた。そこまでは部下の若林に任せていたが、議論はどこまでも平行線でいよいよ行き詰まり、若林もそして先方も、私に決めて欲しいという雰囲気を漂わせ始めていた。そろそろ頃合いか、私は小さく咳払いした。
 交渉が一気に動く。その場に緊張感が走った。
 こういうのは一言目が大切だ。いや、一言で決めてしまわなければならない。そのためには、内容はもちろん、勢い・迫力・覚悟のすべてが求められる。自分でいうのもなんだが、百戦錬磨の私だ。ぐいと机の上に身を乗り出すと、私は交渉相手の目を真正面からにらみつけ、一気に懐に飛び込むと、交渉を決着させる一刀両断の呼吸で強烈な一言を発した。
 いや、発しようとした。発することが出来なかった。出てきたのは、入れ歯が外れたおじいさんのような、頼りなさげなもごもご音だけだった。口が開かなかった。何かが、口を塞いでる?いや、誰かに口を塞がれている?
 そこで飛び起きた。単身赴任を始めて一年と少し、今では見慣れたワンルームの風景がそこにあった。あ、夢か。ため息を吐こうとした。ため息が吐けなかった。おじいさんのおならのように、締まりなく息が抜ける音がしただけだった。口が開かなかった。
 それで思い出した。ああ、マウスシールを貼ってたんだ。
 ここ最近、眠りの質が良くない。睡眠時間を十分にとっても、眠りが浅いのか夜中に何度も目が覚める。若いころに感じていたような朝目が覚めた時の爽快感なんて望むべくもないし、きちんと眠れていないから日中に耐え難い睡魔に襲われる。
 会社の健康診断でそんな話をすると、産業医の先生に勧められたのがマウスシールだった。睡眠の質を高めるには鼻呼吸の方が良いとされているらしい。だが眠っているときに口呼吸・鼻呼吸を意識することはできない。それならば、口を強制的に閉じてしまえば良い。というわけで、開発されたのがマウスシールだ。
 作りと使い方は、いたってシンプルだ。半透明のバッテン(✕)型のマウスシールを、唇を中にしまい込むように口を閉じた状態で上から貼り付ける。以上。
 それだけで、ぐっすり眠れるようになるのか、最初は正直半信半疑だったが、産業医の先生がメーカーの試供品をくれたので、物は試しで使ってみた。そうしたら、驚くぐらいに効果があった。
 夜中に目を覚ます回数も減ったし、朝起きた時もきちんとリフレッシュされた感を感じることが出来た。テープで肌が荒れないか心配だったが、そんなこともなかった。もっと前に巡り合えてたら良かったのにと心の底から思った。
 ただ、マウスシールには二つの弱点があった。
 まず一つ目の弱点は、見た目が間抜けだということ。
 マウスシールを貼った自分の姿を初めて洗面所の鏡で見た時には、昔のクイズ番組でお手付きをして、バッテン印のマスクを着けさせられた回答者かと思った。
 そして、もう一つが、さっきのように、夢の中で話をしようとして口が開かずに目を覚ますことがあることだった。
 いびきはしょっちゅう嫁さんに文句を言われるが、寝言のことで何か言われたことはない。ということは寝言は言っていなくても、夢の中の会話に合わせて口は動かしてたんだな、思わぬところで何の役にも立たない自分トリビアをゲットすることになった。
 ところで、いびきと言えば、マウスシールはいびきの抑制にも効果があるという。自分がぐっすり眠れるだけじゃなくて、嫁さんの睡眠も妨害しないというのなら一石二鳥だ。その結果、嫁さんの機嫌が良くなるなら、一石五鳥を与えても惜しくないな、と考えていて、六鳥目に思い当たった。
 会社の規定では単身赴任者は月に一度帰宅することが出来る。もちろん、ありがたい制度だ。だが、家に帰ったからといって、歓迎されるわけでもない。私がいない前提で出来上がっているルーチンが狂わされることを嫁さんは嫌がっているのが垣間見えるし、高校生の娘は言わずもがなだ。
 大阪と東京を往復するだけで、意外と時間も体力も使ってしまう。しかも家では休まらない。
それなら帰らなくても良いかという風にも思うが、制度を使っていないと、家庭が上手くいっていないと人事に怪しまれるのではという不安もあって、もはや権利というより義務として、毎月第三金曜日の夜に新幹線に乗って帰る。
 新幹線の中ではいろいろ考える。頼まれていた用事でやり残したことはなかっただろうか?最近の嫁さんの機嫌はどうなのだろうか?等々。その中でも毎回頭を悩ませるのが話題だ。
 嫁さんと何を話せば良いのか。ここしばらく、私に対して言葉を発することもない娘と比べてもしょうがないのだが、嫁さんとは比較的コミュニケーションが取れる可能性がある。とは言っても、黙っていたら向こうから話しかけてくれるほど甘くはないので、何らかの話題をこちらから切り出す必要がある。
 もちろん、どんな話題でも良いというわけではなくて、会話の呼び水になるようなものでないといけないわけだが、これが難しい。私の身の回りや仕事に関する話題で、嫁さんが興味を持ちそうなものなどあるわけない。
 仕方なく、最近見たテレビ番組の中から話題をピックアップするのだが、ヒットすることは少ない。グルメや美容など、思いつく限り嫁さんに寄せるのだが、それでも見事にヒットしない。
 結局、着てはもらえぬセーターを編むような思いで話題に頭を悩ませながら、大阪~東京間を移動することになる。これが、髪の毛と同じように若いころと比べるとすっかり寂しくなった私の体力と気力をさらにそぎ落とすことになる。
 この懸案に対する解決策として、次に帰ったときはマウスシールの話をしよう、というのが私の六鳥目だった。
 どういうことか?
 健康はグルメ、美容に次いで嫁さんの関心が高い分野だ。だが、ポイントはそこじゃない。ポイントは、マウスシールは見た目が間抜けということだ。そう、嫁さんの何よりの好物、それは私が間抜けに見えるシチュエーションなのだ。
 嫁さんは私が失敗したり、その結果間抜けに見えたりするのが本当に好きだ。そういう場面に遭遇すると、心の底から楽しそうに笑う。それは別に結婚してから始まったわけではなく、何十年も前に嫁さんと私が付き合っていた頃からずっとそうだ。
 若かった頃の私は、恋人だった嫁さんのそんな反応を見て、「落ち込みそうな俺を励ますために、敢えて笑ってくれてる。なんて優しい人なんだ。しかも、この純粋な笑顔」などと、感激さえしていたものだが、その勘違いが一番間抜けだったというオチだ。
 悲しいエピソードトークはともかくとして、その週末は、マウスシールのおかげで、初めて落ち着いた気分で新幹線に乗り込むことができた。いつもより深くシートにもたれリラックスした。ビールを飲みながらタブレットで映画を見たりさえした。
 いつもより元気に家に帰ると、いつもと同じように嫁さんと娘は部屋に籠っていた。お風呂に入り、寝間着に着替えてから、寝室に行った。嫁さんは、まだ起きていて、ベッドの上で雑誌を読んでいた。私が部屋に入って行くと、雑誌からは目を逸らさないまま、「お帰り」と言った。
 このファーストコンタクトが大事なポイントなのだ。ここで、嫁さんと上手くコミュニケーションが取れれば、週末を、割と穏やかに過ごすことが出来る。もし、そうでなければ?想像するのも恐ろしい時間が私を待ち受けることになる。
「この間、健康診断でさ、」私は、内心の緊張を悟られないよう、極めて何気なく話ながら嫁さんの横に移動した。
 最初は、一般的な健康診断の結果から始めた。さすがにここ辺りは嫁さんにとっても、全く興味がないわけではないので、一応耳は私の話に傾けているが、目は雑誌のヘルシーダイエット記事を追ったままだった。私は気にせず、そのまま話を続けた。
 話題が睡眠に入ると、目新しい話題だからなのか、雑誌を持つ嫁さんの手が次第に下がり、それに伴い少しずつ顔が私の方を向き始めた。私が、「睡眠障害」と言うと、「睡眠妨害の間違いでしょ」と茶々を入れてきさえした。
 機は熟した。
 私はいよいよ、とっておきのマウスシールの話題を切り出した。緊張の瞬間。だが、幸運の女神は私に微笑んだ。嫁さんは食いついてきた。私がマウスシールの説明を終え、マウスシールをポケットから取り出した時には、嫁さんはベッドの上で正座してワクワクした顔で私に対峙していた。
 そして、その三分後。嫁さんは泣いていた。私の間抜けなマウスシール着用姿に、笑い過ぎて泣いていた。心の底からホッとした。達成感もあった。ホッとしたし、達成感もあったから、心の片隅のわだかまりにはあえて目を向けないことにした。
 マウスシールのおかげで、ほんわかとした雰囲気の寝室で眠りにつくことが出来た。これまた、マウスシールのおかげで、眠りの質も悪くなかった。夜中に目が覚めたのは、ただ単に歳と、新幹線の中で飲み過ぎたビールのせいだった。
 嫁さんを起こさないよう、静かにトイレに向かい用を足した。トイレから出ると、洗面所に娘がいた。風呂上りなのだろう、ドライヤーで髪を乾かしていた。いつもなら、こういう時には、まるで私がいることに気が付いていないようなふりをする(あるいは本当に気が付いていない)娘だが、この時は違った。私の顔をじっと見てきた。
 いつもの馬鹿にしたようなというのともまた少し違う、娘の私を見る怪訝な視線に、マウスシールを貼っていたことを思い出した。説明しようとして、当然口は開かなかった。その間に、娘が一言差し込んできた。
「ミッフィーちゃんかと思った」
 ミッフィーちゃん以上に無口な娘の声を久しぶりに聞いた。
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