ファミリーマター

文字数 3,906文字

 お父さんと呼ばなくなった。もっと正確に言えば、父親に呼びかけることがなくなった。言いたくないけど、中学の二年生になった頃のことだ。
 時期について触れたくないのにはちゃんとした理由がある。それは、僕が父親と話をしなくなったのが中学二年の時だと分かると絶対に、「ああ、中二病ね」の一言で片づけられてしまうからだ。
 僕は、僕個人のこういった感情の変化を、その他大勢の中二生徒のそれと一緒にして欲しくない。それは、僕に失礼だし、彼らにも失礼だ。しかも、中二病なんて名前をつけて、病気扱いするなんて全く納得がいかない。
 たしかに以前に比べればちょっとしたことでイライラするようになったかもしれない。言葉遣いだって乱暴で、他人にあたることだってないとは言わない。でもそれは、社会の不条理に対する僕の怒りを、誰も理解してくれようとしないからだ。
 僕じゃない。悪いのは社会の方だ。そんな社会の家庭内窓口である父親に対して、どんな風に呼びかけたり、声をかけたりすれば良いというのだ。
 というわけで、その日も僕は、一言も発することなく家族での夕食を速やかに食べ終えると、絶対話しかけてくるなオーラ全開で席を立った。
 ちなみに、家族三人で食卓を囲むというのは、母親が決めた我が家のルールだ。
 「クソババア」とか汚い言葉を投げつけることができるようになっても、母親に対しては最終的にどうしても超えられない・超えてはいけない一線というものがあるというのが、中二病(という言葉をあくまでも便宜的に使うとして)の僕でさえも認めざるを得ない現実だ。社会の不条理の一番身近な例と言っていいかもしれない。
 しかもその日の食卓での会話は、父親と母親の好きな芸能人のタイプという、くそつまらない話題だった上に、女の子の日焼け跡が好きなのは父親譲りだという世界で一番知る必要のない情報を知ってしまった。そのせいで、お気に入りのアイドルの水着写真データをお蔵入りにしないといけなくなったことには、怒りを通り越して絶望した。
 そんなわけで、部屋に戻って溜まりまくった負の感情をくまモンのぬいぐるみにぶつけていると、部屋をノックする音が聞こえた。無視しようと思ったが、無視すると余計にめんどくさくなることが目に見えていたので、仕方なくドアを開けた。
 父親が、にやにやと笑いながら、でもどこかこっちの機嫌をうかがうような、すごく嫌な感じで立っていた。
「なんか用?」
 こっちは用がないことを120パーセント以上前面に押し出したつもりだった。そして一瞬だけど、父親の顔に怯んだような、傷ついたような表情が浮かんだから、それはきちんと伝わったはずだった。それなのに彼は、
「いや、特に用っていうわけじゃないんだけどさ」
 そう言いながら、僕を押しのけて部屋の中に入って来ると、
「たまには、男同士で話でもしようかと思って」
 なんて、とんでもないことを言い始めた。
 マジで言葉を失った。ところが、それを無言の了解とでも勘違いしたのか彼は、僕のベッドの端に腰かけると、まるで親しい人同士の内緒話のように声を潜めて僕に語りかけてきた。
「最近、悟さ、母さんにもきつく当たってるだろ。母さんも傷ついててさ。思春期だから、当然だっていえば、当然なんだけど、悟自身にも自分がいらいらする気持ちを抑えたくても抑えられてないんじゃないかと思ってさ。分かるんだよ。父さんにも同じようなことがあったから」
 何が言いたいのかさっぱり分からなかった。ところが、彼が僕を見るまなざしには、分かり合ったもの同士の間にしか存在しないはずの共感がにじみ出ていた。もう、これ以上は到底我慢できなかった。
「で、なんなの。言いたいことは?」
 会話を終わらせるためだけの言葉だった。ところが彼は、待ってましたとばかりに、この言葉をきっかけに早口でまくし立てた。
「いや悟もさ、もう中学校二年生だから、ほら子供から大人になる途中で色んな変化が出てくるだろ。身体もさ。それで、なんていうか性的な、そういう性的な衝動の処理の仕方が分からなくて悩んでるんじゃないかと思って・・・」
 部屋の温度が少なく見積もっても二度は下がった。でも、僕の頭にはかーっと血が上って、僕の体温は三度上がった。
 それ、絶対触れちゃダメなとこでしょう!!思春期の息子に。しかも、ログハウスの隣の手作り露天風呂で、豪快に笑いながら言うんならまだしも、息子の部屋でちょっと照れながら言うって、ホント最悪!!
 大声をあげて発狂しそうだった。でも酸欠で声も出なかった。それでも何度か声を絞り出した。
「心配されるほど色気づいてないから大丈夫。それより、最近、母さんとずいぶん仲良いよね。二人でよく出かけてるし。そっちの方がよっぽど色気づいてんじゃないの」
 最近、父親と母親が二人でよく出かけるようになったのは事実だ。
 まあ、でかけると言っても、ほとんどは近所のスーパーに行ったり、たまに外食したりする程度のものだ。それにしたところで、二人の仲がどうこうというよりも、これまで家族で出かけていたのが、僕が付き合わなくなったから引き算的に二人になったようなものだった。
 だから、僕の言葉は嘘ではないけど事実を正確に表現してはいなかった。僕自身がそのことをよく理解していた。酸欠で頭が回らなかったから他に言うことが思いつかず、適当な言葉を口にしただけだ。いつもより抑えた、どこか嫌味な口調になったのも、これまた酸欠だったからだ。
 ところが、僕の言葉を聞いた途端、彼は明らかに動揺した。
「ば、馬鹿を言うな、馬鹿を。父さんと母さんが、仲が良いって?そ、そんなわけないだろ。全然タイプじゃないし。いいか、父さんの座右の銘は女房と畳は新しいほうが良いってなもんだ、なんだからな」
 どこかで見たことある反応だった。
 好きな女の子を当てられた中学生男子そのものだった。
 彼の予想外の反応に冷静さを取り戻し(より正確に言えば、ドン引きし)ている間も、彼は僕の前で一人あたふたし、そして意味不明な捨て台詞を残しすごすごと僕の部屋から退散していった。
 僕に撃退され逃げるように僕の部屋から出てく、以前よりも、そしていつもよりも小さな彼の背中を見て僕は思った。勝った、と。
 正直気分が良かった。すごく気分が良かった。ところがそんな僕の有頂天は長続きしなかった。その翌日から、家の中の雰囲気が一変したのだ。なんて言うか、すごく居心地が悪くなった。
 理由は簡単だった。父親と母親がよそよそしくなったのだ。よそよそしくなったと言ったけど、別に喧嘩したとか、仲が悪くなったとかそういう感じじゃなかった。その真逆だ。どういうことかと言えば、中学生の好きなもの同士がお互いを意識しているがゆえに、うまく話せない。まさにそんな感じになってしまったのだ。
 学校でよくあるそんなシチュエーションを、家で、しかも父親と母親で見せられる。これはキツイ。キツ過ぎる。でも、父親に母親を意識させ、その結果、母親までもが父親を意識するようになった、そもそもの原因が僕自身にあるのだから、誰にも文句は言えなかった。
 例の週末の二人でのお出かけも、それからぱたりと見かけなくなった。そして僕は、父親と母親が二人で出かけるのを実は僕自身が嬉しく思っていたことを思い知らされた。まさか父親と母親が仲良くすることを嬉しく思っていたなんて、びっくりだった。びっくりして、それと同時に、二人に対して申し訳ない気持ちにもなった。
 そのせいだけじゃないと思うんだけど、そのせいも確かにあって、この頃から、僕の中二病は嘘のように快方に向かった。父親も母親も気が付いていたはずだ。でも、何も言わなかった。僕に気を使っていたというのもあるだろうし、それ以上に、この時期我が家には色んな感情が渦巻き過ぎていた。
 我が家の混乱はしばらくの間続いた。その間僕は、この状況がずっと続くんじゃないかと恐怖した。それでも、時間が流れ季節が過ぎ去っていく中で、特別なきっかけもなく次第に我が家は落ち着きを取り戻していった。僕は、家族が持つしなやかな強さを知った。
 静けさを取り戻して三か月ほどたった、ある日のことだ。僕が洗面上で歯磨きをしていると、さっき歯磨きを済ませたはずの父親がやってきて僕の斜め後ろに立った。
 髭剃りでもし忘れたのかなと、鏡越しに様子をうかがったが、そんな感じでもない。何をするわけでもなく、ただ立っている。強いて言えば、もじもじしてた。
 以前のように苛立つことはなかったけど、時間もなかったので、とりあえず無視して歯磨きを済ませて、顔を洗い、ムースで前髪をセットした。鏡で確認、問題なし。さあ、学校に行こうと振り返り、まだそこに立ち尽くしたままの父親の脇を通り抜けようとした。すると、僕の肩を掴み、父親が言った。
「火をつけたのはお前だからな」
 は?どういう意味?と聞き返そうとした。だけど、それより早く身をひるがえらして父親は洗面所から出て行った。なんなんだ?取り残され、逆に僕が立ち尽くした。しばらくそのままで、ふと時計を見ると、近くのバス停にバスが到着する2分前だった。
 慌てて家を飛び出した。バスにはぎりぎり間に合ったけど、息は切れるし、髪のセットは乱れるしで最悪だった。バスに乗っている間は、髪型の修整に必死で、学校についた時には、父親の洗面所の言葉のことなんてすっかり忘れていた。
 それから4か月。そういえば、そんなこともあったなと思い出す僕の腕の中で、生まれたばかりの妹の美園がすやすやと静かな寝息を立てている。
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