どうして高野はぬるりと笑ったか?

文字数 4,041文字

 高野はぬるりと笑った。二コリでもニヤリでもなく、ぬるりと笑った。
 単身赴任先のマンションの一室には高野以外誰もおらず、第三者的な証人はいなかった。だけど、その直後に風呂場の前の脱衣場兼洗面所に駆け込んだ高野自身が、洗面台の鏡に映った自分の顔にぬるりとした笑顔の余韻を見つけている。
 高野は、どうしてぬるりと笑ったのだろう?
 その問いに答えるのは簡単じゃない。この世界の全ての出来事の背景では複数の様々な要因が複雑に絡み合っている。それが、一見因果関係が明確に見えるような出来事であったとしても。
 現象が単純だと、原因は単純に見える。でも実際にはそうじゃない。
 高野がぬるりと笑った理由もそうだ。だから、その理由を探るために、10分ではなく1日(本来であれば、それでも十分でないかもしれないけれど)時間を巻き戻したい。
 高野の朝食はいつものように、ヨーグルトとシリアル、そしてキウイだった。
 五十歳を前に初めての単身赴任。健康にはできる範囲で気を使っている。シリアルも、本当はコーンフレークが好きなのだが、玄米フレークと栄養価の高いグラノーラを混ぜたものを食べている。キウイはビタミンCが摂れる上に、真っ二つに切ったやつをスプーンでほじって食べれば洗い物が出ないところも気に入っている。
 洗い物は大問題だ。手間をかけて食事を作るのも大変だが、手間をかけた割にちっとも美味しくない食事の後片付けは本当に気が滅入る。と言って、狭いワンルームマンションで、洗いものがキッチンでそのままになっていると、どこからでも目について余計に気が滅入る。
 できるだけ食べた後、落ち着いてしまう前に洗い物は片づけるようにしている。が、シンクと呼ぶにはあまりに奥ゆかしいサイズのシンクでは、洗い物がすぐに渋滞してしまって効率がひどく悪い。こうして高野は、高野の奥さんが、家探しの時にどうしてあそこまでシンクの大きさを執拗なまでに気にしていたのかを学んだ。
「高野君、ちょっと」
「課長、聞いてくださいよ」
 会社に出勤すると、毎日全く同じ枕詞で始まる部長と部下の会話に付き合わされているうちに一時間が潰された。はっきり言って無駄な一時間だった。
 部長の話は、社内幹部の人事異動に関する噂話、百歩譲って情報共有で、それを受けて高野が取るべきアクションという指示のようなものは一切なかった。部下の話は、取引先の担当者に関する愚痴、百歩譲って情報共有で、それを受けて高野に仰ぐ判断のようなものは一切なかった。
 無駄な時間だった。それは百パーセント間違いない。でも、そんな無駄な時間を提供するという俺の役割は、組織の中ではきっと無駄ではないんだろうなと、中間管理職と呼ばれるようになってから千回目くらいに高野は自分に言い聞かせた。
 一息入れたくて、昼食は会社から少し離れた喫茶店でナポリタンを一人で食べた。
 ワイシャツにとんだトマトソースの染みをおしぼりで叩いていると、スマートフォンに高野の奥さんラインの着信が入る。中学生の息子の生活態度が悪いから、注意してくれと書かれていた。
 単身赴任を始める少し前くらいから、高野の中学二年生の長男の態度は少し反抗的になっていた。単身赴任するときもそのことが気になっていた。それでも、長男は子供の頃から自分よりも奥さんになついていたので何とかなるだろうと思っていた高野の読みはもちろん甘かった。
 高野の奥さんにも細かく口を出す傾向があるから、反抗期の長男にはあまり関わらず小言も控えた方がいいのにと高野は内心思っているが、そんなことを言おうものなら奥さんの不満の矛先が自分に向かってくることが火を見るより明らかなので、もちろんそんなことは言わない。
 自分が嫌な思いをすることが嫌なんじゃない。俺までが不満の種になってしまうと、嫁さんのストレスの解消先がなくなってしまうことが心配なんだ、と頭の中で独り言ちる。
 まだ若かったころ、同じように単身赴任していた当時の上司が、同じような話をしていたのを思い出した。あの頃は、大した悩みじゃないなと思いながら、いかにも共感していますという体で相槌を打っていたが、若かりし時代の自分のそんなへらへらとした感じが舌の奥に苦く、コーヒーのブラックが甘く感じた。
 ちなみに来週家に戻る予定だけど問題ないかと昨日の夜に送ったメッセージに関しては、奥さんのラインでは一言も触れられていなかった。
 いつもと同じように、最終的にどんなアウトプットに繋がっているのかがさっぱり分からない資料作成とスケジュール調整であっという間に時間が過ぎ、高野が会社を出たときは二十時を回っていた。
 夕食の材料を買うために、マンションの最寄り駅の近くのスーパーに立ち寄った。独身の時は、弁当屋かコンビニで出来合いのものを買って済ませていたが、年齢的に健康に気を使い、できるだけ自炊するようにしている。
 自炊と言っても、ほぼ毎日、スーパーの鍋野菜パックを使った一人鍋で、鍋の具材もしくは鍋のお供が、その日のスーパーの売れ残り状態によって変わるだけだ。
 その日は仕事中からずっとコロッケ気分だった。しかもコロッケが一つ売れ残っていた。それなのに、売れ残ったお惣菜の中でなぜかコロッケだけに割引札が付いていなかった。係員の貼り忘れに違いなかった。でも、それを確認するのもかっこ悪い気がして、聞けなかった。で、コロッケの代わりに鯖缶を買った。
 鯖缶は使い勝手がいいのと、奥さんから身体に良いと聞かされているので、高野の単身赴任生活でのヘビーローテーションになっている。世間の人気も高いらしく、缶詰コーナーには各社の鯖缶がずらりと並んでいる。値段もまちまちだが、味もまちまちだ。
 いろいろと試した結果、値段が高いから美味しいとは限らないと高野は学んだ。以前にやたらと本格をうたういつもの倍以上の値段がする鯖缶を買ったら、好みの味でなく、やたらと骨が多く食べ辛くて辟易した。
 鯖缶の支払いをしながら、割引前のコロッケの方が鯖缶より安いことに気が付いた。ただそれは、気持ちの問題だよな、と自分をうまく納得させられた。
 マンションに戻り、玄関のドアを開けて部屋に入ると、「ただいま。いやー、今日も疲れたよ」と古参のぬいぐるみに声をかけた。これも単身赴任生活を構成する数多いルーチンの一つだ。
 もちろん、返事が返ってくるのを期待しているわけじゃない。ただ、この一言を発声することで、大きく深呼吸をしたような落ち着きが得られるのだ。それなら深呼吸でいいじゃないかと自分でも思うのだけれど、そこにはやはり違いがある。それが言葉の力なのか、ぬいぐるみの力なのかは高野には分からない。
 スーパーで買ってきた食材をエコバッグから取り出して冷蔵庫に入れる。そのついでに缶ビールを取り出すと、もう片方の手にビアグラスを持って、ベランダに向かった。ベランダからは高速道路が見える。車は見えないが、フェンスの上部を高速で通り過ぎていく車のライトが見える。
 グラスに注いだビールを一口飲む。若かったころは缶から直接一気に飲み干すのが好きだった。いつからか、気が付けばグラス派に転向していた。グラスの表面についた水滴に、高速道路の明かりが映っていた。
 ベッドの上に脱ぎ捨てていたパジャマと、ピンチハンガーから数日前に半渇きのまま室内に取り込んだ下着を回収すると浴室に向かった。途中で、服を脱ぎ去り、そのまま洗濯機に放り込む。
 狭い部屋には不釣り合いなくらいに浴槽は大きい。しかし、会社から戻ってきてから浴槽にお湯を張る時間がもったいなく、高野は一度も湯船に浸かったことがない。このスペースがもったいないと思う。ゆっくり湯船に浸かって体を温めたら、症状も良くなるのかとも思いながら、熱めのシャワーを入念に患部に当てた。
 濡れたまま脱衣所に出ると寒いので、ドアの隙間から手だけを出してバスタオルを取り、身体を拭いてから浴室を出た。裸のまま育毛成分の入ったヘアトニックで入念に頭皮をマッサージすると、上半身だけ下着とパジャマを着て、下半身は裸のまま洗面所の引き出しから薬を取り出した。
 痔用の座薬だ。
 単身赴任を始めて、食生活のせいなのか、ストレスのせいなのか、何のせいなのかは分からないが、痔が悪化した。正確には痔が悪化しそうな気配を感じだした。二十年ほど前に本格的な痔を患い病院に通ったことがあったから、高野にとってその嫌な気配は顔なじみだった。
 この二十年でも、何度かこういうときがあり、いつも早めの処置で症状は改善していた。だから、敵も対処法も、単身赴任自体に比べればだいぶ経験値が高かった。
 ラミネートのパッケージから坐剤を取り出した。カルピス色で弾丸のような形をした坐剤は、クレヨンとクーピーの中間のような奇妙な手触りをしている。そんな坐剤を挿入した。昔は犬がおしっこするような態勢で挿入していた。先日久しぶりにその態勢を取ろうとしたら、足と首が同時に攣った。とはいえ、新しい、乗馬スタイルもすっかり板について、今では何の問題もない。
 座薬を奥に押し込むと、やはり異物感がある。次第に座薬が溶けていくと、冷涼感が走り、異物感は薄まる。それでも座薬の存在感はそう簡単にはなくならない。それがむしろ高野には頼もしい。
 手を洗ってから、全身の着衣を済ませてキッチンに向かった。
 MVP級に獅子奮迅の活躍を見せる、一人用鍋に水を入れて少し沸かせてから出汁塩を入れて、それから袋から取り出した鍋野菜セットを鍋に放り込んだ。鯖缶の投入は最後だ。
 と、そこまで来て、鍋に蓋をしていないことに気が付いた。鍋に蓋をすると早く野菜が柔らかくなるし、野菜の風味で出汁の味も良くなる。鍋蓋はシンクの下にしまってある。
 扉を開けて、鍋蓋を取り出そうと腰を下ろした。尻の穴が左右に開き、座薬がぬるりと飛び出した。
 高野がぬるりと笑った。
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