終宴

文字数 3,693文字

 糸原は不満だった。
 日本を離れて海外逃亡することになったことに対してではない。
敵対する組の幹部を襲撃する実行犯には自分で手を上げた。犯行後すぐに身元が割れて、警察からも、相手の組からも追われる立場になったが、それはもとより覚悟の上だった。
 所属する組の対応も、十分に満足できるものだった。
 海外逃亡の手配も、ほとぼりが冷めた数年後の帰国・その際に準備されるポジションについても、若頭以下がいる前で組長はきちんと確約してくれ、薬の輸入で海外経験の豊富な若い小木を世話係として帯同させてもくれた。
 最近の組の状況を考えれば、手厚いと言って良いほどに逃亡資金も潤沢だった。
 それでは、何が不満だったのか?
 潜伏することになった国だ。インドだったのだ。
 ついこの間までは、裏社会の海外逃亡先として真っ先に名前が挙がるのはフィリピンだった。ビザが不要な上に入国審査は甘く、気候は温暖で、マニラには出稼ぎで日本の滞在経験がある女たちも多く、バラ色の逃亡生活を満喫することができた。
 実際、糸原の組もマニラに秘密のアジトを構えており、糸原の潜伏先としてもそこが使われるはずだった。土壇場で計画の変更が告げられたのは、国内の逃亡先の埼玉のビジネスホテルだった。
「インドぉ⁉なんで、マニラじゃねえんだ」
「いえ、それが例のルフィーの一件のせいで」
 糸原が機嫌を損ねたのを見て、小木は言い訳するように慌てて早口で説明した。
「ルフィの一件?なんだそりゃ?」
「ほら、去年良くテレビとかでもやってたじゃないですか。ルフィって名乗ってた、特殊詐欺グループのリーダー。そいつの拠点がマニラだったんです。フィリピンは金さえ払えば、警察も見て見ぬふりをしてくれる部分が多かったんですが、さすがに今回の件が注目を浴びすぎて取り締まりが強化されてて、しばらくフィリピンは避けた方が良いだろうってことになったんです」
 小木の話が糸原には良く分からなかった。
 フィリピンの事情など、知ったことじゃなかった。たしかにルフィが逮捕されたとかいう話は去年テレビで見たことがあったが、そのときも漫画の中の話だろうと思っていた。
 訳の分からない話で、逃亡先がマニラじゃなくなったことに腹が立った。小木の、いかにも分かりやすく話していますというような口ぶりも気に入らなかった。
「それならそうと最初から言え!ボケが!」
「すみません!!」
 灰皿を投げつけると、小木はすぐに土下座して詫びを入れた。その様子を見て、少しだけ気が晴れた。
 以前にマニラに潜伏していた兄貴分から聞かされた楽しい逃亡生活の目論見が外れたことは、この時点で糸原に刷り込まれた。だが、インドでの逃亡生活がどのようなものになるかについては、糸原には知る由もなかった。
 実は、小木には漠然とした不安はあった。だが、その話をすると糸原が暴れそうだったので、その不安が糸原に告げられることはなかった。
 二人はタイのバンコク経由でインドに入った。デリー国際空港に夕方に到着して、潜伏先であるデリー近郊の町、グルガオンにはタクシーで移動した。タクシーの運転手には、小木が行先を説明した。
 小木が、インドは英語が通じるのでそこは楽です、みたいなことを言った。それが、英語が話せない自分に対する当てつけのようにも聞こえて、一瞬糸原の頭に血が上りかけた。だが異国の地の心細さもあって、このときはぐっと我慢した。
 インドの交通事情は、ひどいものだった。道路の上に溢れ返らんばかりの車が走っているうえに、どの車も車線を守らず、やたらとクラクションを鳴らしながら、少しでも隙間があるとそこに車体をねじ込み、逆走している車すらあった。
 この国じゃあ、煽り運転もケツ巻いて逃げ出すな、そんなことを考えながら、糸原はタクシーのシートにもたれかかって高速道路から見える街並みに目をやった。淀んだ空気の中、日本のより何倍も大きくて、真っ赤な太陽が建設ラッシュが進む街の向こう側に沈んでいっていた。
 糸原は不満だった。
 あてがわれた日本人用のホテルは清潔だった。だがホテルから一歩足を踏み出せば、そこはゴミと廃墟だらけの文字通りのスラムだった。一歩足を踏み出せばと言ったが、足を踏み出す気にはなれなかった。そもそも足を踏み出すことができなかった。
 清潔に見えたホテルの水道水を口にして、猛烈な下痢に襲われたのだ。
 俺たちの世界は舐められたら終わりだ。一発かましてやらないと収まりがつかなかった。這う這うの体でレセプションに怒鳴り込んだ。言葉は通じなくても、胆力は通じるはずだった。だが、肝心の下っ腹に力が入らなかった。
 それでも、水であたったから落とし前を付けろと、凄んで見せたが、丸々としたインド人の女性従業員に水道の水なんて飲む方が悪いとたどたどしい日本語で簡単にあしらわれた。
 下痢の症状がようやく落ち着いたのは、5日後のことだった。その間、カーテンを閉めっきりの部屋からほとんど出ず、口にしたものと言えばほとんど水だけだった。痛い目に合ったところなので、本当は水を飲むのも怖かったが、水を飲まないと死んでしまうと思い、日本から持ってきた栄養剤をペットボトルの水で恐る恐る飲んだ。
 身体が回復してくると、しばらく存在すら忘れていたタバコが吸いたくなった。どうせタバコを吸うなら、外の空気の中で吸おうと思った。
 カーテンを開けると、日本とは光線量が違う日差しが部屋に差し込んできた。それだけでくらくらした。それでもバルコニーに出た。外の空気を吸った。激しくむせた。煙草を吸うどころではなかった。くすんだ夕焼けのシーンを思い出した。さすがにめげた。
 糸原は不満だった。だが、いつまでも、不満でいるわけにはいかなかった。元々、バイタリティはあった。次第に、インドでの潜伏生活にも慣れて来た。
 一方で、海外経験が多い小木の方がショックのどん底からの立ち直りは遅かった。
 そんな小木を見ていると、糸原はイラついた。すると、余計に力が湧いてきた。ただイラつくだけでなく、時にはめそめそすると小木を殴りつけた。自分に怯え、半べそをかいた小木を見ていると、さらにパワーが湧いてきた。
 糸原自身にその自覚はなかったが、その人生を通じて、糸原にとっての最大の悦びは、自分よりも弱い者を恫喝や暴力で自分の支配下に置き、その怯えた様を見ることだった。
 その意味で、それが歌舞伎町であろうがインドであろうが、小木の存在がある限り糸原の宴は続いていたのだ。
 インド上等だ。気力が漲って来ると、欲しいものが出て来た。
「おい、酒買いに行くぞ」
 小木の部屋にどかどかと入り込むと、糸原は言った。
 少し仲良くなってきた例の受付の女に、歩いていける距離に酒屋があると聞いたのだ。ホテルにもビールはあったが、それだけでは物足りなかった。酒屋にはもっと強い酒が揃っているということだった。
 小木は乗り気ではなかった。体調は戻り切っていない上に、インドでの、それ以上に糸原との、逃亡生活に疲れ切っていた。地獄のような場所で地獄のような男に付き合わされている。全てを悪い夢だと思い込んで、ひたすら眠っていたかった。
 だが、もちろん、小木に選択肢などあるはずもなかった。
 二人はホテルを出ると、糸原が受付で書かせた手書きの地図を手に歩き始めた。
 目の前に広がるのはスラムだった。だが見慣れたせいか、最初に受けたような衝撃はもうなかった。ゴミはいたるところに散乱している、というよりもうずたかく積み上がっていた。だが、空気が乾燥しているせいか腐敗臭はしなかった。
 鼻を衝くのは、埃の匂いだった。それは、日本で生まれ育った者にとってはあまり馴染みがないはずの匂いだった。だが、糸原はなぜか懐かしさを感じた。
 それまでとはまるで違った感覚で、糸原は当たりを見回した。
 そこで目にした。
 一匹の野良犬が、水回りの中を転げまわり、身体中を擦りつけていた。
 犬の気持ちは分からなかった。分かろうはずもなかった。だが、何か良くないものが野良犬にとりついていることだけは間違いなかった。
 無意識に一歩、後ずさりした。するとまさにそのタイミングで、野良犬が転げまわるのをぴたりと止め、すっくと立ちあがった。そして糸原の方を見た。目が合った。
 次の瞬間、野良犬が糸原をめがけて全速力で一直線に駆け寄ってきた。
「きゃーっ」
 糸原は、思わず女子高生のような悲鳴を上げた。
 奇声に驚いたのか、野良犬は糸原の直前でUターンして、猛烈な勢いで走り去っていった。かと思うと、今度は、はるか先の野原で身体をこすり転げまわりだした。
 一連の出来事に、糸原は唖然として言葉を失った。
 が、しばらくして我に返った。我に返ると、さっき悲鳴を上げたことが急に恥ずかしくなった。
 ちらりと横を見た。気のせいか、小木が自分を見る目に今までの恐れが感じられないような気がした。
 すぐさま、小木のみぞおちに蹴りを入れて、いつものように凄んだ。
 だが、糸原の威厳が戻ることはなかった。
 糸原の宴が終わった。
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