白熱
文字数 2,466文字
議論が白熱していた。会議室が熱気で溢れ返っていた。
普段はいけ好かないまでに冷静な、戦略マーケティング部の小林までが顔を紅潮させて捲し立てた。
「たしかに、このプロジェクトはリスクが大きい。今のうちの販売の柱のデバイス事業とのカニバリのリスクもゼロじゃない。だが、だからこそ今踏み出すべきだ。そうじゃないと、10年後の事業存続はない」
集まっていたのは30代後半から40代前半の中間管理職で、それぞれの部署で次世代のエースと目されているメンバーだった。
普段は各組織の利益を代表するが故に意見が対立することも多い彼らだったが、この日は違った。彼らは皆、同じ思いを持ってその場所に集結していた。
組織の壁を越えた、自分たちの会社を良くしたいという情熱、いやこのままでは駄目だという危機感が、彼らを駆り立てていたのだ。
経理の村井が続いた。
「私も、小林さんの意見に賛成です。うちのポートフォリオを財務的な観点から分析しても、現在の事業から上がってきている資金を次の事業開発に活用できていないことは明白です。業績の割に株価が低調なのも、それが理由の一つだと考えられます」
営業の山中の張りのある声は、その大きさ以上に良く通った。
「この件だけじゃなくて、幹部は何かあれば二言目には、カニバリ、カニバリって言うが、自分で食わなければ、手つかずのまま残るっていうんなら、その選択もまだ理解できるが、そんなわけない。実際には、自分で食わなけりゃ、競合に食っちまわれるだけのことだ。やらない理由が、俺には分からない」
その瞬間、その場に居合わした全員の頭の中に、一つの顔が浮かんだ。
事業企画の野上が、代表してそれを声に出した。その場には似つかわしくない、落ち着いたトーンだった。だが、野上の表情には、はっきりと苦々しさが浮かび上がっていた。
「益岡常務が、反対している」
そのたった一言で、その場の熱気が身体にまとわりついてくるような、そんな重苦しい雰囲気が会議室を支配した。
「また、益岡天皇かよ」
誰かが呟いた。全員がこの会議室に足を踏み入れた時から、その事実を知っていたはずだった。だが、改めてその言葉を耳にすると、自分たちが直面している壁の大きさを思い知らされた。
益岡常務は社内の権力者だ。創業から四十年間近く社を支えてきた。この会社が一部上場にまで上り詰めた背景に、益岡常務の功績があることは誰もが認めるところだ。
同時に、益岡常務の剛腕はビジネスに留まらず、社内政治でもいかんなく発揮されている。自らがトップに立つことはせず、キングメーカーとしての地位を固め、実権を掌握。歴代の社長も益岡常務には頭が上がらない。
その結果、弊害も出てきている。
益岡常務の個人的な思惑に偏った人事と、時代の変化に目を向けようとせず過去の自分の成功体験のみに固執した事業判断が、事業成長の低迷と社内の闊達な風土醸成を妨げる大きな一因となっているのだ。会社の資金を私的に流用しているという黒い噂もある。
そんな状況を憂いて、これまでに何人もの憂社の志士たちが反乱の狼煙を上げた。だが、益岡常務の圧倒的な力の前に、屍を重ねる結果になっただけだった。
「真正面から正攻法で行っても、潰されるだけだぞ」
「そんなことは分かってるよ。だからどうするのかって話だろ」
小林の言葉に、山中が強く反応した。お互いの気持ちが分かるだけに、余計にイラついている、そんな感じがありありとしていた。
村井がとりなすように、小林と山中の間に入りながら言った。
「柳井本部長を味方につけるって言うのは、どうでしょうか?柳井さんは、年齢が若いこともあって考え方は柔軟ですし、下の意見にも耳をきちんと耳を傾けてくれる方です。それに、海外畑が長かったこともあって、経営メンバーの中では益岡常務との接点が少なくて、益岡常務とも距離を置いていると聞いたことがあります」
一瞬、会議室に淡い期待のようなものが漂った。だが一瞬だった。野上がすぐに、そんな雰囲気を打ち消した。
「正確には、距離を置いていた、だ」
野上の言葉を噛みしめるように、山中が問うた。
「柳井さんも、益岡常務に牙を抜かれちまたってことか?」
「牙どころか、タマを抜かれたようなもんだ」
全員がすぐにその意図を理解した。
「宦官ってやつか。情けない話だ。まあ、俺にしたって、抜かれてはいないが、家じゃあ宝を持ち腐らせているわけだから、それならいっそ抜かれた方が、余計なことに気を取られなくなる分、楽かもな」
腹立たしさを押し隠すために、敢えて偽悪的に振舞っている。そんな小林に、村井が意外な角度から反応した。
「残るらしいですよ」
「残るって何が?」
「性欲が。去勢されても」
会議室を沈黙が支配した。その沈黙の底で、全員が想像力を働かせていた。
「なんだよ。それじゃあ進むも地獄、戻るも地獄じゃないか」
正に、その一言が、全員の気持ちを表現していた。そのせいだ。そこから会議室内を間髪入れずに飛び交った発言には、どれが誰のものなかも分からないような一体感があった。
「家で宝の持ち腐れなんだったら、外で遊べば良い」
「このSNSが発達したご時世。芸能人じゃなくても、いつどこで浮気がばれるか分かったもんじゃないだろ」
「そうですね。素人の方だとコンプライアンス的にも問題が多いですし、下手したら家庭どころか職まで失うことになりかねません。それならきちんと、そういうお店で処理するしかないんじゃないでしょうか」
「どこに、そんな金があるんだよ。こっちは、煙草代だって出張旅費精算口座でやりくりしてるんだぞ」
「いっそのこと、全部投げ捨てちまって、新しいパートナーと人生やり直すか」
「新しいパートナーって、こんな中年誰か本気で相手にしてくれるのかよ」
「なんだかんだ言って、子供は可愛いっていうのもあるな」
「じゃあ、人間の本能とでもいうべき、この性への衝動はどうしたらいいんだよ!!」
白熱した議論の結果、この日男たちが出した結論は、奥さんは大事にしようだった。
普段はいけ好かないまでに冷静な、戦略マーケティング部の小林までが顔を紅潮させて捲し立てた。
「たしかに、このプロジェクトはリスクが大きい。今のうちの販売の柱のデバイス事業とのカニバリのリスクもゼロじゃない。だが、だからこそ今踏み出すべきだ。そうじゃないと、10年後の事業存続はない」
集まっていたのは30代後半から40代前半の中間管理職で、それぞれの部署で次世代のエースと目されているメンバーだった。
普段は各組織の利益を代表するが故に意見が対立することも多い彼らだったが、この日は違った。彼らは皆、同じ思いを持ってその場所に集結していた。
組織の壁を越えた、自分たちの会社を良くしたいという情熱、いやこのままでは駄目だという危機感が、彼らを駆り立てていたのだ。
経理の村井が続いた。
「私も、小林さんの意見に賛成です。うちのポートフォリオを財務的な観点から分析しても、現在の事業から上がってきている資金を次の事業開発に活用できていないことは明白です。業績の割に株価が低調なのも、それが理由の一つだと考えられます」
営業の山中の張りのある声は、その大きさ以上に良く通った。
「この件だけじゃなくて、幹部は何かあれば二言目には、カニバリ、カニバリって言うが、自分で食わなければ、手つかずのまま残るっていうんなら、その選択もまだ理解できるが、そんなわけない。実際には、自分で食わなけりゃ、競合に食っちまわれるだけのことだ。やらない理由が、俺には分からない」
その瞬間、その場に居合わした全員の頭の中に、一つの顔が浮かんだ。
事業企画の野上が、代表してそれを声に出した。その場には似つかわしくない、落ち着いたトーンだった。だが、野上の表情には、はっきりと苦々しさが浮かび上がっていた。
「益岡常務が、反対している」
そのたった一言で、その場の熱気が身体にまとわりついてくるような、そんな重苦しい雰囲気が会議室を支配した。
「また、益岡天皇かよ」
誰かが呟いた。全員がこの会議室に足を踏み入れた時から、その事実を知っていたはずだった。だが、改めてその言葉を耳にすると、自分たちが直面している壁の大きさを思い知らされた。
益岡常務は社内の権力者だ。創業から四十年間近く社を支えてきた。この会社が一部上場にまで上り詰めた背景に、益岡常務の功績があることは誰もが認めるところだ。
同時に、益岡常務の剛腕はビジネスに留まらず、社内政治でもいかんなく発揮されている。自らがトップに立つことはせず、キングメーカーとしての地位を固め、実権を掌握。歴代の社長も益岡常務には頭が上がらない。
その結果、弊害も出てきている。
益岡常務の個人的な思惑に偏った人事と、時代の変化に目を向けようとせず過去の自分の成功体験のみに固執した事業判断が、事業成長の低迷と社内の闊達な風土醸成を妨げる大きな一因となっているのだ。会社の資金を私的に流用しているという黒い噂もある。
そんな状況を憂いて、これまでに何人もの憂社の志士たちが反乱の狼煙を上げた。だが、益岡常務の圧倒的な力の前に、屍を重ねる結果になっただけだった。
「真正面から正攻法で行っても、潰されるだけだぞ」
「そんなことは分かってるよ。だからどうするのかって話だろ」
小林の言葉に、山中が強く反応した。お互いの気持ちが分かるだけに、余計にイラついている、そんな感じがありありとしていた。
村井がとりなすように、小林と山中の間に入りながら言った。
「柳井本部長を味方につけるって言うのは、どうでしょうか?柳井さんは、年齢が若いこともあって考え方は柔軟ですし、下の意見にも耳をきちんと耳を傾けてくれる方です。それに、海外畑が長かったこともあって、経営メンバーの中では益岡常務との接点が少なくて、益岡常務とも距離を置いていると聞いたことがあります」
一瞬、会議室に淡い期待のようなものが漂った。だが一瞬だった。野上がすぐに、そんな雰囲気を打ち消した。
「正確には、距離を置いていた、だ」
野上の言葉を噛みしめるように、山中が問うた。
「柳井さんも、益岡常務に牙を抜かれちまたってことか?」
「牙どころか、タマを抜かれたようなもんだ」
全員がすぐにその意図を理解した。
「宦官ってやつか。情けない話だ。まあ、俺にしたって、抜かれてはいないが、家じゃあ宝を持ち腐らせているわけだから、それならいっそ抜かれた方が、余計なことに気を取られなくなる分、楽かもな」
腹立たしさを押し隠すために、敢えて偽悪的に振舞っている。そんな小林に、村井が意外な角度から反応した。
「残るらしいですよ」
「残るって何が?」
「性欲が。去勢されても」
会議室を沈黙が支配した。その沈黙の底で、全員が想像力を働かせていた。
「なんだよ。それじゃあ進むも地獄、戻るも地獄じゃないか」
正に、その一言が、全員の気持ちを表現していた。そのせいだ。そこから会議室内を間髪入れずに飛び交った発言には、どれが誰のものなかも分からないような一体感があった。
「家で宝の持ち腐れなんだったら、外で遊べば良い」
「このSNSが発達したご時世。芸能人じゃなくても、いつどこで浮気がばれるか分かったもんじゃないだろ」
「そうですね。素人の方だとコンプライアンス的にも問題が多いですし、下手したら家庭どころか職まで失うことになりかねません。それならきちんと、そういうお店で処理するしかないんじゃないでしょうか」
「どこに、そんな金があるんだよ。こっちは、煙草代だって出張旅費精算口座でやりくりしてるんだぞ」
「いっそのこと、全部投げ捨てちまって、新しいパートナーと人生やり直すか」
「新しいパートナーって、こんな中年誰か本気で相手にしてくれるのかよ」
「なんだかんだ言って、子供は可愛いっていうのもあるな」
「じゃあ、人間の本能とでもいうべき、この性への衝動はどうしたらいいんだよ!!」
白熱した議論の結果、この日男たちが出した結論は、奥さんは大事にしようだった。