そんとく

文字数 3,925文字

「森羅万象、世の中の全ては調和がとれているということを知ることが大切です」
 開け放たれたお堂には蝉の声が溢れ返らんばかりに響き渡っていた。それなのに、静かに語り掛けてくる住職の声は、不思議なくらいにはっきりと俺たちの耳に届いた。
 北鎌倉のそのお寺を訪れたのは会社の研修だった。
 仏教とは何の関係もない医療機器販売が業務のうちの会社が、どうしてお寺で研修をしていたのかというと、「営業力とは人間力だ!人間力を鍛えるにはお寺修行だ!」という、社長の鶴の一声のせいだった。
 社長が最近読んだ本の影響や、ふとした思い付きで、何かを言い出すのはこれが初めてじゃなかった。それが新しい販売戦略の時もあれば、今回のように人材育成に関するアイデアということもあった。
 いずれにしても一度言い出すと聞かない社長なので、社長の指示を受けた企画の連中は速やかに、首都圏内のお寺にコンタクトして、社内研修を受け入れてくるところを探し出し、受講者の選定、日程調整が行われ、研修当日に至った。
 その間、わずか二か月。このスピード感が経営に活かされないことが残念で仕方がない。仕方がないが、まあそんなもんだろうなとも思う。
 ところで、そんな社長の思い付きプロジェクトは実は成功事例も多い。もちろん失敗もあるが、成功事例の方が多い。当時は聞いたこともなかったイスラエルの会社との提携もそうだし、男性社員の育休取得義務化もその例だと言って良いと思う。
 このあたりのセンスというか勘は、大学在学中に立ち上げたこの会社を、業界で中堅クラスにまで育て上げた社長のすごいところだと素直に認めたい。
 だけどその上で、お寺研修の企画を聞いた時、今回はさすがに失敗だろうなと正直思った。俺だけじゃなくて、みんなそう思ったはずだ。
 そもそも人間力というものが何なのかがはっきりしなかった。なので、人間力を鍛えれば、それが営業活動の改善にどう繋がるのかなんて分かるはずもなかった。百歩譲ってそれが正しかったとして、医療機器の販売に求められる人間力がお寺修行から得られるとは思えなかった。千歩譲ってそれが得られるとしても、そのための修行が半日で済むはずがなかった。
 もちろんそんなことを、企画やまして社長になんて言えるはずもないから、まあ会社のお金で半日お寺観光させてもらおうくらいな感じで、どちらかと言えばお寺研修が終わった後の、飲み会にみんなの興味は移っていた。
 ところが結果的には、また俺たちは社長のすごさを思い知らされることになった。
 お寺修行が期待以上だったのだ。
まず環境が良かった。 企画から回ってきた事前資料には、「日常生活から離れた、仏教の修行の地で、人生を振り返る機会に」と謳われていたのを、俺たちは「東京から一時間しか離れてない、ちょっと静かな場所で座禅組んだところで、何も変わらないよ」と踏んで臨んだのだが、これが大違いだった。
 東京から一時間離れただけの北鎌倉に、こんなに自然が残されていることを知らなかったのもそうだが、そんな自然に囲まれた、お寺という仏教施設が醸し出す厳粛な雰囲気はこれまでの人生で経験したことがないものだった。
 自然と向かい合い座禅を組んでしばらくすると、すっと心の中に自然が入り込んできて、やがて心は自然と一体となり、そして無になった。
その、心が無になった状態で、自分のことを見つめ返すのは、まるで宙に浮かんで第三者の視点から自分を眺めているような感覚だった。
 俺が見たい自分だけではなくて、目を背けたいような汚い部分、卑しいところも見えた。だけど、そのことに対して、恥ずかしいという感情は湧き上がってこなかった。ただ、哀れだと思った。それと同時に、愛おしいとも思えた。それは、ネガティブな部分も含めて、ありのままの自分と向き合うことができたからだった。
 そんな体験ができたのは間違いなく、その環境のおかげだった。
 環境に加えて、研修自体も良かった。
 境内の掃除のような作務から始まり、写経、座禅、短い時間であっても、お寺での行動は一つ一つに全て意味があり、その意味を理解した上で実際に研修を行うと、本当にすっと全てを自分の賦に落とすことができた
 そして何より、説話が素晴らしかった。
 全ての言葉を素直に聞き入れる、環境のおかげでそんな心持ちになっていたというのもあるのだろう。住職の説話は、砂の水がしみ込んでくるように心に染みた。
 それは、修行の旅に出た一人の僧がある土地で、庭にある大木を日当たりが悪くなるからという理由で切り倒そうとする男と出会い、物事の一面にだけ目をやるのではなく、その大木によって生かされている生き物や植物、また日当たりを悪くしているその大木が夏の暑さから家を守ってくれていることなどを説くという話だった。
 そして住職は、こう話を締め括ったのだ。
「森羅万象、世の中の全ては調和がとれているということを知ることが大切です」
 きっと、俺以外の皆も同じような心境で、住職の話を聞いていたのだろう。こういう場面では、いつも斜に構えて、あまり積極的に参加しようとしない同僚の一人が、手を上げて住職に質問した。
「今のご住職の説話を聞かせていただいて、損得勘定という言葉が思い浮かびました。私は会社で法人営業を担当しているんですけど、取引先の方とやり取りをする際には、お客様と営業という関係の前に、一人間対一人間の関係を作り上げることが大事だと考えています。
 それが、長期的にお付き合いさせていただく上で重要なことだと考えているからですし、実際、それを実行する努力もしているつもりなのですが、どうしても、損得勘定が働いてしまうことがあるんです。
 ご住職は、世の中の全ては調和がとれているとおっしゃられましたが、このあたりのいわば相矛盾する感情に折り合いをつける、というかバランスを取るためにはどのようなことに心がければ良いと思われますか?」
 それは、ある程度はちゃんとした営業であれば、一度はかならずぶつかる悩みだった。俺もそうだ。住職が、この問題にどのような解を出してくれるのか、すごく興味があった。
 だが住職は、質問を聞き終えると困ったような表情をした。そして一拍の間をおくと、穏やかな笑みを浮かべて、口を開いた。
「まず、大変難しい、ご質問だと言わないといけません。ただそれは、あなた様の問題を解決することが難しいからではなく、拙僧には、今の時点で既にあなた様自身が問題を解決しているように思えるからです。
 中学を卒業してすぐに仏教の道に入り、そこから一貫して修行のみの人生を歩んできた拙僧にもちろん商売の細かいところは分かりかねますが、それでもそれが単にどちらか一方のみが、損をした得をしたりするといったような単純なものでないことは想像がつきます。あなた様が全ての得を取ったと思われる取引であっても、それを受け入れた以上、何らかの得が先様にもあったと考える方が自然でしょう。
 もっとも、そのこと自体はあなた様も当然理解されておられるでしょうし、拙僧が問題自身がないと感じている理由は別のところにあります。それは、あなた様が、そこに損得勘定が働いたと自覚をし、そしてそのことを心苦しく感じられているからです。
 そもそもあなた様は、人間関係を大事にしたいという考えをお持ちです。そうであれば、例え今回の取引で得を過ぎたと考えたならば、次の取引の際にはきっと、何らかの形でその得を還元しようと考えられるはずです。そして、これは自信を持って言えますが、きっと先様もそのことを分かられていらっしゃるし、逆に先様もあなた様と同じような考えでお付き合いをされている。
 おそらくはあなた様が頭に思い浮かべて話をされた先様とのお付き合いは、昨日今日のものではなく何がしかの長い期間に渡り、続いているものなのではないですか。もしそうであったとしたら、そこには必ず既に調和が存在するはずだと、拙僧にはそう思えて仕方がないのです」
 目を見開かされたような気がした。
 言われてみれば住職の言うとおりだった。今まで感じてきた罪悪感が、的外れなものだと感じられた。いやより正確には、自分自身の行動を振り返ってみたときに、必ずしも住職の話と一致しないケースもなくはなかったが、今後の自分自身の行動指針のようなものを示してもらえたように思えた。
 すごく心に刺さった。そして、首を回せば、それは俺だけではなく、この質問をした同僚、この研修に参加した全員にとって同様なことは一目瞭然だった。
 住職は、自分の言葉が皆に届いたことを確認するように、お堂を見渡すと最後にこう伝えた。
「この場所で、釈迦に説法という言葉を使うのも妙ですが、一つだけアドバイスの真似事のようなことをさせていただくとすれば、損得勘定のソンの字は尊ぶの尊、トクの字は、もうけの得ではなく人格の徳、つまり尊徳勘定だと、ご自身の中でそんな風にお考えになればよろしいのではないでしょうか」
 そして住職はお堂の奥の時計にちらりと目をやった。研修の終わりの時間のようだった。
 この研修に参加して良かったと心の底からそう思えた。そして、もっと色んな話を聞いてみたいと思った。
「ああ、それから最後にもう一つ、」
 いかにもふと思い出したという感じで、住職が言葉を継ぐと、すぐにみなの視線が住職に集中した。それは期待の表れだった。
 そして住職は、それまでと同じ口調でそんな俺たちに語り掛けた。
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