追憶

文字数 2,906文字

 お父さんのお葬式が終わって家に帰ると、喪服から着替えてお母さんとお姉ちゃんと私の三人でこたつに入った。何も考えずにそれぞれがいつものポジションに座った。お父さんが座っていた私の正面は空席で、見やすくなったカレンダーが、お父さんが本当に死んだのだという事実を実感させた。
 仕事中にお母さんからの電話で、お父さんが心臓麻痺で倒れたと連絡があってから一週間。あまりに色んな事があり過ぎて、連絡を受けてから今こうしてこたつに座っているまでの出来事を思い返すことができないくらい、怒涛の日々だった。
 お茶を飲んで一息ついてから、両隣に目をやった。
 右隣に座ったお母さんは、お父さんが死んだという悲しみよりも、無事お葬式を終えることができたという安どの表情をより強く浮かべていた。ある意味、葬儀やその他諸々の忙しさが、悲しさを紛らわせてくれている部分はあるはずだった。
 子供である私から見ても、特別に仲が良いという夫婦ではなかった。ただ、時代ということもあったのだろう、当たり前のようにお父さんが決めたことにお母さんは従ってきていた。お父さんも、お母さんや私たちを含めた家族のことに対して、責任を一人で背負っているような考え方の人だった。
 結婚してから三十年近くもそんな関係を続けてきて、ある日突然一人になったお母さんの心情を正確に私が推し量ることはできなかった。それでも、しばらくは意識的に顔を見に来るようにしようと思った。
 一方で左隣のお姉ちゃんは、ただ黙々と、みかんの房の白筋を取り除いていた。
 お姉ちゃんは、普段からあまり感情を表に出す人ではない。だが、いつも以上に黙々としたその様子からは、逆にお姉ちゃんのお父さんに対する感情が透けているように見えた。
 お父さんとお姉ちゃんの関係を端的に表現するならば、二人は馬が合わなかった。好きとか嫌いとか、相手の考えが理解できるとか理解できないとかいうことではなく、お互いの言葉や気持ちが響きあわなかった。それは正に、馬が合わないとしか言いようがなかった。
 ストレートで直情的なお父さんと、いつもどこか斜に構えて理屈っぽいお姉ちゃんの組み合わせの相性が良くないのは、当然と言えば当然だった。でも、二人のすれ違いはそれ以上だった。
 私の記憶にある限り、お姉ちゃんが高校生までの間は、お父さんは何とかお姉ちゃんとの関係を修復しようとしていた。だけど、その試みはいつも二人の馬の合わさなさをより強調する結果に終わっていた。そして、そんなお父さんの挑戦と挫折の歴史は、大学進学のタイミングでお姉ちゃんが家を出たことで幕を閉じた。
 お姉ちゃんがわざわざ東京から地方の大学に進学したのも、お父さんから離れたい気持ちがあったはずだ。
 お父さんが倒れたという連絡を受けて病院に向かうタクシーの中で私は、ひょっとしたらお姉ちゃんは病院に来ないんじゃないかと思った。だけどお姉ちゃんは来た。お母さんや私のように動揺したりはしていなかった。でも、ベッドに横たわるお父さんの隣に立ち、お父さんの最後をきちんと見送った。
 お姉ちゃんが家を出た理由の中には、自分のことで思い悩む日々から、お父さんを解放してあげたいというお姉ちゃんなりの思いやりがあったのかもしれない。病院でのお姉ちゃんの様子を思い返しながら、私は願望混じりにそんなことを考えた。
「お父さんがいないと、随分と家の中が静かね」 
 お母さんが言った。
「テレビつけようか?」
「テレビって気分じゃないわね。こんなときラジオがあったらいいんだけど、随分と前に壊れちゃって、そのままだから」
「ラジオだったら、スマートフォンでも聞けるよ。私アプリ入れてるし」
「へえ、本当にスマートフォンって言うのは何でも、できるのね」
「お母さんもスマートフォンに切り替えたらいいね。連絡取り合ったりするのも、そっちの方が便利だし」
 お母さんとわたしがそんな会話を交わしている間も、お姉ちゃんはみかんに集中したきりで、会話に入ってくる様子はなかった。
 スマホの画面でラジオのアプリを探しながら、お父さんとの関係は特別ではあったけれど、そもそもあまり人間関係に積極的な人ではないなと、改めて思った。
 トークに耳を傾ける感じでもないだろうと、世界の名曲を紹介する番組を選んだ。かかっていたのは、有名なモーツァルトのピアノソナタだった。音楽の授業でも聞いたことがあったが、何故かそれ以上の親しみをその曲に感じた。
 記憶をたどると、一つの思い出にたどり着いた。
「あ、そう言えば、お父さんこの曲の替え歌歌ってなかったっけ?」
「覚えてないけど、そうかもね。音痴なくせに、何でもメロディーに適当な歌詞を付けるのが好きな人だったから」
「たしかに、歌は上手じゃなかったね」
「あんた覚えてる?昔、うちで飼ってたセキセイインコにお父さんが桃太郎の歌を教えたんだけど、お父さんの音程が外れてるもんだから、セキセイインコの音程も外れてて、うちに遊びに来たあんたの友達にその歌を笑われて、恥ずかしいってあんたがお父さんに文句を言ったの」
「えー、そんなことあったっけ」
 全く覚えていなかったが、いかにも我が家で起こりそうな話だったし、私が取りそうな態度だった。
 お父さんの替え歌の歌詞が何だったか、考えている内にモーツァルトのピアノソナタが終わると、ラジオから次に流れてきたのは、タイトルは聞き損ねたが、ハンガリーの民族音楽だった。
「聞いたことない曲だけど、モーツァルトのピアノソナタの次に流れてくるくらいだから、有名な曲なんだろうね」
「あら、知らないの。有名な曲よ。そこれこそ、お父さんが、」
 お母さんの言葉を遮ったのは、突然口を開いたお姉ちゃんの言葉だった。
「私、この曲聞いたことある」 
「聞いたことあるって、どこで?」
「思い出せないけど、ずっと小さい時。でも、絶対聞いたことある」
 お姉ちゃんには珍しく、どこか強い意思のこもった言葉だった。
「たまにあるよね。そう言うのって、って、どうしたのお母さん⁉」
 何気なく目をやって、かなり驚いた。お母さんが、涙ぐんでいた。
 最初はびっくりして、次に精神状態を心配しかけた私に、私だけに聞こえる小さな声で、お母さんは訴えかけるように言った。
「この曲、お姉ちゃんが赤ちゃんの頃に、お父さんが替え歌にして歌っていた子守歌なの」
 お父さんとお姉ちゃんの関係がうまく行かないことに悩んでいたのは、もちろんお母さんも同じだった。いや誰よりも心を痛めていたのはお母さんだったかもしれない。それが、お姉ちゃんの記憶の底にお父さんの子守歌が刻まれていたことが、正にお父さんのお葬式の日に分かった。
 お母さんにとって、それは感慨深いことだったに違いない。
 お母さんの一言に、ラジオから流れるメロディー、そして赤ちゃんのお姉ちゃんを寝かしつけようとしているお父さんのイメージが重なった。
「お姉ちゃん・・・」
 目頭が熱くなった。いや正しくは、目頭が熱くなりかけた。だが、お姉ちゃんのあっけらかんとした言葉の方が、一瞬だけ早かった。
「あ、思い出した。テレビのコマーシャルだ」
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