コーヒー豆怖い

文字数 3,884文字

「・・・『饅頭怖い』は、どう?」
 落研に入っていた内山が、絞り出すように切り出した。
 訳が分からなかった。訳が分からないのに失礼な話だけど、関わりたくないなと僕は思った。午前三時半のファミレスで、『饅頭怖い』の話をするくらいなら、それがいかにみっともなかったとしても、テーブルにうっ伏してよだれを垂らしながら寝たほうがよほどましだった。
 返事もしたくなかった。戸倉と村林も同じ考えだったと思う。
「どういうこと?」
 それでも戸倉は内山に問い返した。普段から現実屋の戸倉は、このときも現実にきちんと向かい合っていたのだ。僕たちは今、会話のネタをえり好みできるような状況になんてなく、その一方で、僕たちには何でもいいからとにかく会話のネタが必要だという現実に。
 大学卒業後、初めての連休前日。僕たちゼミ仲間の四人が、誰が言い出したというわけでもなく学生時代に通い詰めた居酒屋に集合したのは、僕たちが、それぞれがそれぞれなりに、社会人という新たなステータスの壁にぶつかっていたからであり、終電では帰るという予定がなし崩しになったのは、結局のところ、僕たちから学生気分が抜けきっていなかったからだった。
 さらに学生気分を指摘されても申し開きができないことに、僕たち四人には、全員に翌日の朝一番からの予定があった。どうしても寝過ごしてしまうわけにはいかなかった。万が一寝てしまったときに備えて、スマホのアラームをセットしておくという選択肢はなかった。
 何故ならば、僕たちは、それぞれがそれぞれなりに、スマホのアラームくらいでは起きない学生生活を送ってきたからだった。
 会話を続けるしかなかった。だけど、寝てしまわないようにという目的だけで、会話を続けるのは想像を絶して困難だった。
 そもそも会話なんて言うものは、自然発生的なものだ。それを人工的に生成しようとするところに、無理があった。学生時代や、さっきまで居酒屋でバカ騒ぎしていた時には、無尽蔵に湧き出てきたくだらない会話のネタは唐突に枯渇した。いや、僕たち自身が、源泉に蓋をしてしまったという表現の方が適切なのかもしれない。
 寝落ちとの苦闘の30分は、本当にちゃんとネタを考えているのか、お互いが疑心暗鬼になり顔色をうかがいあう30分でもあった。そして、僕たち全員が敗者になりかけた正にそのとき、内山の口から飛び出したのが『饅頭怖い』発言だったというわけだ。
 内山は、自分から切り出したくせに、まるで乗り気じゃなかった。それでも、せっかく戸倉が反応してくれたんだからと、不承不承をまるで隠さない様子で話し始めた。
「有名な落語なんだけど、知らないか?簡単に言えば、こういう話だ。
 今日の俺たちみたいに、男たちが集まって飲んでるんだけど、そのうちの一人が、お互いの怖いものが何かを言い合おうと言い出す。それで順番に言っていくんだよ。幽霊とか、蛇とか、蜘蛛とか。なんだけど、最後に残った一人が、なかなか自分の怖いものを言わない。
 それでも、他の男たちがなだめたりすかしたりして、ようやく聞き出すんだ。で、そいつの怖いものが、饅頭。
 饅頭の形が怖い、中にあんこが入っているところが怖い。なんだかんだうんたらかんたらと言って、饅頭の話をしているだけで気分が悪くなったと、家に帰っていく、と。ところが、この男が仲間内での嫌われ者なんだな。
 男がいなくなると、普段から態度の悪いそいつを懲らしめてやろうじゃないかと話が盛り上がる。みんなで大量の饅頭を買い込んで男の家に行く。窓からその饅頭を家の中に投げ込む。さあ、男が悲鳴を上げるのを今か今かと待ちわびる。だけど、いつまでたってもうんともすんとも聞こえてこない。
 ひょっとしたらショック死したんじゃないかと、慌てて家の中に飛び込むと、男は美味しそうに饅頭を食べている。こうなることを予想して、わざと好物の饅頭を怖いって言ってたわけだ。怒った男たちが、本当にお前が怖いものは何だと問いただしたら、男は答えるんだ。
 今は、濃いお茶が一杯、怖いって」
「なるほど、今度はお茶が飲みたいってわけか」
 その落語の題名を聞いたことはあったけど、『饅頭怖い』が、そういう内容だったんだと僕は初めて知った。
「OK、OK。それは、分かった。分かったけど、で、それで何すんの?みんなでその『饅頭固い』とかいう、落語をやるって言う話やの?」
 大阪出身の村林が、いつもの少し大げさな口調で割り込んできた。
「『饅頭怖い』な。いや、そうじゃない。落語と同じように、みんなの怖いものの話をして、どれが一番怖いか優勝を決めないかって言う提案」
「怖いものって、この歳になって、そんな話で朝までもつか?」
 村林の意見に、僕も同感だった。ところが、意外なことに戸倉の反応は違った。
「いや、良いかもしれないぞ。怖い話って言うのは、どちらかと言えば体温を下げるから眠気とは反対方向に作用する。それに、優勝を決めるって言うのが良い。何にしても順位がつくとなると、決着が気になるから、興味も続きやすいだろう」
「なるほど、たしかに言われてみれば、この四人の中で誰が優勝するかってなったら、ちょっと面白そうやな。それに、優勝が決まるまでは、眠気も我慢できるかもしれんへんっていうわけやから、優勝を狙うというよりも、優勝が決まらへんことを目標にしたらええんやんな。それやったら、簡単やな。大した話でなくてもええわけやし」
 あっさりと村林が転換した。こうなると、どうせ他に良いアイデアがあるわけでもないし、とりあえずは怖いもの話大会をやろうかという雰囲気が出来上がった。
「じゃあ、決定でいいね。誰から行こう?」
 さっきまでは嫌々だったのが、思いもかけずとんとん拍子で意見が採用されて、内山も嬉しそうだった。場の雰囲気につられて、僕のテンションも少し上がった。
 ただ、改めて自分が怖いものと言われると、何も思い浮かばなかった。確かに、お化けはともかく、蛇やクモは怖いけど、飛び抜けてそれなのかと言われればそれほどでもなかったし、それに関して特に語れるエピソードもなかった。
 村林も、言い出しっぺの内山でさえもそうだったのだろう、怖いもの話大会は、まだ始まってさえいないのに沈黙に包まれ、不穏な空気が流れた。
「みんなすぐに思いつかないんだったら、俺から始めようか」
 そのとき、戸倉が小さく手を上げた。さすが戸倉、何の心当たりもなく話に乗ったというわけではなかったいうわけだ。もちろん僕たちに異論があるはずもなかった。
 念のために僕たち全員の顔を見回すと、戸倉は内緒話を始めるように口を開いた。
「俺が怖いもの、それはコーヒー豆だ」
「コーヒー豆!?」
 村林のリアクション芸を笑顔で受け止めると、戸倉は話を続けた。
「俺がコーヒー好きなのは、お前らも知ってるよな。普段は忙しいから、コンビニとか仕事の合間に喫茶店くらいだけど、週末だけは、自分で豆から挽いてドリップしたコーヒーをゆっくり飲むのを楽しみにしてるんだ。
 コーヒーを味わうのも良いし、準備している間の雰囲気や香り、時間の流れ方がもっと良い。ただ、一つだけ問題がある。うちのコーヒーミルが手動なんだ。コーヒー豆を主導のコーヒーミルで挽いたことがあるやつにしか分からないだろうけど、これが結構難しい。
 難しいって言うのには、二つあって、まず一つはこの挽き方、主にはスピードだな、によって味がまるで変わって来るんだ。自分がイメージするような味にするために、コーヒー豆を挽くのは、ほんと難しい。
 それからもう一つは、しょうもない話なんだけど、ゴリゴリと豆を挽いてたら、しょっちゅうコーヒー豆がミルから飛び出してテーブルの下に落ちるんだ。特に、今日みたいに遅くまで飲んだ次の日だよ。コーヒー豆を逃がさないように挽くのも、テーブルの下に落ちた豆を探すのも、どっちも難しい。
 ようやく見つけた豆を拾おうとして、頭を打つこともあるしな」
 普段は冷静な戸倉が、テーブルに頭をぶつけるところを想像すると笑えてきた。
「つまり、だからコーヒー豆が怖いと」
 内山も顔をほころばせながら、戸倉に問いただした。だが、戸倉は首を横に振った。
「違う。そうじゃない。本題はここからだ。
 つい、2週間ほど前の土曜日の朝のことだ。その時も俺は、コーヒー豆をミルで挽いていて、そして一粒のコーヒー豆がテーブルの下に逃走した。めんどくさかったが、まあ特別な感情もなく、俺は身体を折り曲げてテーブルの下を覗き込んだ。
 ところで、コーヒー豆っていうものはいつも大体同じような場所に転がっていく。まあ、それが自然の摂理ってやつだよな。だから、俺はいつもコーヒー豆が転がっていくあたりに目を向けたんだ。そうしたら、そのときもすぐに見つかったんだよ。つやつやと茶色くて楕円形したコーヒー豆が。
 ああ、良かったと俺は手を伸ばした。ところが、コーヒー豆が転がったんだ。転がったんだけど、その様子が、一瞬、ゴキブリに見えてさ、俺思わず、ぎゃあって」
「それは、怖いな・・・」
 さっきと違って、全く笑えなかった。思わず口から漏れたコメントは、百二十パーセント僕の本心だった。
 戸倉は、僕に目をやり、共感を得たことを確認した上で続けた。
「だろ。でも、これで終わりじゃないんだ。壁際に逃げたコーヒー豆を拾おうとして、俺気付いたんだよ。それ、見えたんじゃなくて、ほんとにゴキブリだったって」
 一瞬の沈黙の後、村林が悲鳴にも近い叫び声を上げた。
「もう、それ優勝やん!!」
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