僕の頭には蚊が住んでいた

文字数 3,922文字

 きっかけは、会社帰りの井の頭線の車内ニュースだった。FC東京の試合結果を確認していたら、ドラマの宣伝が始まった。もじゃもじゃ頭の大学生が事件を解決するという、何とも風変わりなドラマだった。
 その宣伝を見たとき、あっと思ったのは、僕がミステリー好き、だからではなく、主人公の髪型のせいだった。
 子供の頃からという表現が正しいのかどうかは分からないけれど、僕は天然パーマだ。それも、その気になれば(あるいは、長期間にわたり散髪をする気にならなければ)、アフロヘアーのようになるだろうくらいに強度の。
 僕の天然パーマに対する思いは変遷を遂げてきた。
 まず、小学生を卒業するくらいまでは、まったく気にしていなかった。それが、思春期に入ると、ニキビに次いで僕の人生における二大悩みの一つとなり、心の中の文集に、将来の夢は直毛になることと書き連ねた。そして、大学生になると、特に理由もなく自分の個性として割と好意的に受け止められるようになった。
 そのせいもあるし、大学時代ならではの色んな意味での緩さもあって、僕も(事件こそ解決しないものの)もじゃもじゃ頭の大学生だったというわけだ。
 そんなわけで、大学時代の思い出の中の僕のシルエットは、今より二回りほど頭が大きい。そして、その多くの場面では、相対的にということもあるのだろう、顔の小さなシルエットが僕に寄り添っている。それは、僕の彼女だった佐和さんだ。
 三歳年上の佐和さんと付き合い始めたきっかけも、もじゃもじゃ頭だった。
 佐和さんは僕がバイトしていた西荻窪のイタリアンレストランの先輩だった。洋裁店とお団子屋さんに挟まれた、決しておしゃれではないけれど、ミラノのトラットリアで十年修業し、そこの娘さんを奥さんとして日本に連れて帰ってきたシェフが腕を振るう、食通や地元の人たちに広く愛されているお店だった
 バイトリーダーとして五人のバイトメンバーを束ね、いつも颯爽と指示を出す佐和さんと、言われたことを黙々とこなすことで精いっぱいの新入りの僕の間に、最初のうち接点はほとんどなかった。サワさんが苗字なのか、名前なのかも知らなかったほどだ。
 その日、バイトメンバーでの飲み会に参加した時も、中心に座って場を仕切る佐和さんからは離れたすみっこの方に座って、僕はオーダーを通す役割に徹していた。お店の雰囲気をそのまま反映したように家庭的なメンバーで、和気あいあいとした感じの飲み会だった。
 お酒が進むと、席も入り交ざり、普段以上の親しさのようなものが生まれてきたけれど、それが何かトラブルに繋がるようなこともなく、居心地の良い空間を、それでも僕はすみっこの方から楽しく眺めてた。だから、突然頭に衝撃を感じたときはビックリした。
「え、え!?」
 隣を見てもっとびっくりした。いつの間にか佐和さんが座っていた。そして、僕の頭をUFOキャッチャーみたいにぐしゃっと掴んだ佐和さんは、僕以上に驚いていた。それは、驚愕と言ってもいいくらいだった。
「保くんの頭がもじゃもじゃになってる!!」
 佐和さんの反応には理由があった。
 うちのお店は、シェフの個人的な好みで、フェルト地のベレー帽をバイト全員がかぶることになっていた。ところが、バイトの面接の後にその帽子を試しにかぶってみたところ、僕のもじゃもじゃ頭には収まりが悪かった。
 だから僕はバイトに出るときにはネットで髪をまとめキャップをかぶって出勤していたのだけれど、男性と女性では着替えスペースが違ったから、佐和さんは僕のもじゃもじゃもネットまとめも見たことがなかったのだ。
「ひゃー、もじゃもじゃ頭ってこんなにふわふわなんだ」
「あの、ちょっと・・・、やめてもらえませんか・・・」
 いつものバイト先の頼れるリーダー然とした佐和さんとはまるで違った。明らかに酔っぱらっていた。でも、僕のもじゃもじゃを物珍しそうにかき回す佐和さんを、その時僕は初めてかわいいと思った。
 その一か月後のことだ。たまたまバイト上がりの自転車置き場で佐和さんと一緒になった。給料日だったということもあって、飲みに行こうかということになり、そこで僕たちは意気投合した。
 映画や音楽の趣味、飲んでいたインスタントコーヒーの銘柄が一緒だった。常連のお客さんの小さな癖の話で盛り上がった。でも何より、佐和さんが僕のもじゃもじゃ頭を触ることで距離が縮まった。
 その夜、僕は佐和さんのアパートに泊まった。
 そのまま付き合い始めて、しばらくすると、ほとんど佐和さんの部屋で寝泊まりするようになった。バイトも大学も佐和さんの部屋から通った。バイト仲間には、僕たちが付き合っていることは公言もしなかったし、隠しもしなかったけど、気が付けばそれは公然の事実になっていた。でも、それで何かが変わることもなかった。
 佐和さんと僕の、ほぼ同居生活は約2年間続いた。佐和さんが大学院で国際法学を勉強していることは、一緒に暮らし始めてから知った。僕は英文学科で演劇を専攻していた。
「この勉強が将来にどう繋がっていくのか見当もつかないね」
 よく佐和さんはそう言った。僕も百二十パーセント同感だった。
 ところで、本人がどこまでそのことに気が付いていたかは分からないけれど、佐和さんは僕のもじゃもじゃ頭を気に入っていた。身体を重ねた後は決まって、バスケットボールでスリーポイントシュートを狙うみたいに、僕の頭を両手でそっと構えた。朝起きてみると、その体勢だったこともしばしばだった。
 そんなとき、僕の頭はほんのりと温かくなり、僕はとても幸せな気持ちになった。
 二階にあった佐和さんの部屋の窓は、買い手がつかないまま雑草で埋め尽くされた住宅建設予定地に面していた。そのことは僕たちにとって、都合が良いことが多かった。見晴らしが良かったし、部屋の中に干した洗濯物も良く乾いた。秋には月見をしながら二人で団子を食べたりもした。
 ただ問題もあった。夏になると蚊が大量に発生したのだ。そして、蚊はその日の糧を求めて僕たちの部屋にやってきた。家族郎党を引き連れて。夏、それは僕たちと蚊一族の決戦の季節だった。
 日中の間は僕たちに分があった。視覚的に蚊を発見することもできたし、そもそも生活の中ですぐに動ける態勢が常に取られていた。だけど、夜になると戦況は一変した。視界を奪われ、タオルケットをお腹の上にかけて横たわった僕たちは、見事なまでに無防備で、蚊の襲来の一方的な餌食だった。
 もちろん、僕たちもただ指をくわえていたわけじゃない。蚊の侵入を防ぐべく、小さな窓の窓辺には蚊取り線香を左右に二個配備した。少しでも大きな網戸の網目はテープで塞いだ。最終的には暑さを我慢して、寝るときには完全に窓を閉めた。
 それでも、そんな僕たちをあざ笑うように、蚊一味はいとも簡単に侵入と略奪を繰り返した。羽音と痒みと、腹立ちで夜も眠れないくらいだった。
「しかし、どこから蚊は入ってきてるんだろうね?」
 だから、その日、夕食のときに佐和さんがそんな風に切り出したのは別に突飛なことじゃなかった。
「考えられる限りのすべてのところはチェックしたと思うんですけどね」
 付き合って一年以上経っても僕が敬語だったのは、僕たちが二人とも同じバイトを続けていたからだ。
「あ、分かった!!」 
 缶ビールに口をつけたまま、ぼんやりと僕の方を見てた佐和さんが、いきなり僕の方を指さして、大声を上げたのは、蚊の話題が始まり、蚊の話題が停滞し、僕の関心が蚊よりもどちらかと言えばテレビの中のベイスターズの試合の行方に移って五分ほどしたころだった。
「保くんの、もじゃだ!!」
「もじゃ!?」
「保くんの、もじゃもじゃ頭に蚊が住み着いてるんだよ!」
 そういう冗談だったのだろうけど、佐和さんの顔は真剣そのものだった。思わずつられて、上を見た。もちろん僕に、僕のもじゃもじゃ頭は見えなかった。でも何となく、僕のもじゃもじゃ頭の中で暮らす蚊の家族が思い浮かんだ。
「そうか、そうか、保くんのもじゃもじゃ頭だったのか」
 なぜか申し訳なさそうに佐和さんを見返した僕を、佐和さんはにこにこと満足そうな表情を浮かべて見ていた。その時も僕は幸せだなと思った。
 数少ない僕の恋愛体験の中で、佐和さんは、色んな意味で特別な存在と言って良いと思う。その中でも、特にユニークなのは、どうして僕が佐和さんと別れたのか、その理由が今でもわからないことだ。
 何かのきっかけで喧嘩したり、一緒に暮らす中で違和感が芽生えたり、そういうのはなかった。ただ、好きなのに一緒にいるのが苦しくなって別れた。少なくとも、僕の方はそうだった。
 それが八年前のことだ。もじゃもじゃ頭の探偵のおかげで、そんなことを思い出した。
 なんとなく、車窓の窓に映った僕を見た。磨いた革靴を履き、サイズの合ったスーツを着こなし、整髪料で髪もきちんとセットした僕は、どこからどうみてもちゃんとした社会人だった。
 もじゃもじゃ頭の頃の方が良かったなんて、理由もないセンチメンタルに浸るつもりはなかった。今の自分が誇れるような人間なのかどうかは分からない。だけど、僕がここに至るまでのすべての道のりは、僕が僕自身で選んできたものだった。
 後悔なんてあるはずがなかった。あっていいはずがなかった。だから僕は、窓の外を流れる景色に映された僕の表情に、佐和さんの横顔を重ねなかった。重ねないために、僕には何か別のことを考える必要があった。
 そんな風に僕は思いを馳せた。
 僕のもじゃもじゃ頭という、原生林のように居心地の良い住処を追われた、かわいそうな蚊の家族のことに。
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