魚商の妻

文字数 3,343文字

 家の近くに公園がある。銀杏の並木道やバラ園があるような大きな公園だ。その公園の入口には自動販売機とベンチがいくつか並んでいて、俺もランニングの後に休憩したりするのだけれど、先日、そこで気になる光景を目にした。
 七十代か八十代くらいのお婆さんが、例の良く目にするフードデリバリーの四角いリュックサックを隣においてスマホをいじっていたのだ。
 いくらなんでも、フードデリバリーをするには歳を取り過ぎてる。声にこそ出さなかったが、正直ビビった。
 もちろん、そのお婆さんがフードデリバリーをしていない可能性だって考えられた。
 いまどきお年寄りでもスマホくらい使う。俺の両親だって俺との連絡はほとんどLINEだ。スマホをいじってる=フードデリバリーは、むしろこじつけと言っていいくらいだろう。リュクサックだって、昔の人はものを大事にするから、フードデリバリーをしていた孫のお古を使っているだけなのかもしれない。
 だが、お婆さんの目の前に停められた年季の入った自転車が、その光景を、「次のデリバリーをスマホで確認しながら、公園のベンチで休憩する老人」と説明していた。
 信じられなかった。信じられなかったが、分別ある中年男性らしく、「まあ、そんなこともあるさ」と、その場を立ち去り、家に帰ってビールを飲みながらテレビでベイスターズの試合を観た。一点を争うナイスゲームで、八回のピンチに伊勢が登板してきたときには、そんなお婆さんのことなどすっかり忘れていた。
 ところが、それと同じ場面にその二週間ほど後に遭遇した。
 その日は会社の飲み会帰りで、俺が公園の前に通りかかったときには夜の十時を過ぎていた。人気のない公園のベンチ、お婆さんの顔がスマホのライトで浮かび上がっていた。そして、おばあさんの隣には例のリュックサック、前には自転車。
 中年男性の分別に、興味とお酒の勢いが勝った。気が付けば、俺はお婆さんに近づいて、話しかけていた。
「お仕事中ですか?」
 お婆さんは最初戸惑ったようだったが、すぐに良く日焼けしたしわだらけの顔に人懐っこい笑みを浮かべて言葉を返してきた。
「いや、今日はもう上がろうかと思って、手続きをしよったんよ」
 少し訛りがあったが、口調ははっきりとしていて聞き取りやすかった。そして、そのお婆さん自身の言葉で、お婆さんが現役のフォードデリバラーだという突拍子のなかった俺の想像は、都会の片隅の小さなサプライズへと上書きされた。
「こんな遅くまで、大変ですね」
 労いの言葉は自然に出た。
「大変は大変じゃけど、身体も頭も使ってなかったらぼけるけんね。ご飯食べるんじゃって、お国からいただいているお金より自分で稼いだお金で食べる方が美味しいし、他人様のお役にも立てる。それにこうやって自転車に乗ってたら、昔のことを思い出して懐かしいんよ」
 そう言ってお婆さんは、愛おしそうに自分の自転車に目をやった。
 気まぐれで話しかけたお婆さんの言葉に、俺は興味を惹かれた。どうやら、フードデリバリーは単なるお婆さんのアルバイトではなく、そこには何か物語があるようだった。
「そのお話、聞かせていただけますか?」
 お婆さんは俺の問いに言葉では答えず、ただこくりと頷いた。
 俺は、自動販売機でペットボトルのお茶と缶コーヒーを買い、お婆さんにお茶を渡した。お婆さんは、丁寧に礼を言いながら俺からお茶を受け取ると、一口二口と口に含んで小さく息を吐いた。そして、吐息を続けるように話し始めた。。
「私が生まれ育ったんは海に面した小さな村で、村中の大人はみんな漁に関係する仕事をしとるような、いわゆる漁村じゃったんよ。私の両親も、そうじゃったから、私の一番古い記憶も、土間の上がりの畳に寝かされて見た海と空、聞こえた波の音、そんで魚の匂い。
 時代っていうのもあるんじゃろうけど、そんなところで大きうなったから、子供の頃もあんまり学校で勉強したとか、友達と遊んだっていうような思い出はのうて、親の手伝いで漁の網を洗うたり、干物にする魚を浜辺で干したりとかそんな奴ばっかりじゃったね。
 結婚は早かった。近所の漁師の倅と十六のときに結婚したんよ。もちろん、恋愛結婚なんかじゃない。親が決めた結婚よ。ほやけど、私は嬉しかった。この倅というのが男前で、私はずっと前からこの人と結婚出来たらええなあって思とったけんね。嫁ぎ先が漁師じゃったから、生活はなんも変わらんかったけど、村の外れの小さな家で二人で暮らして、旦那さんも優しかったし、今から思たらこのころが一番幸せだったかもしれん。
 ほんと旦那さんはいい人じゃったんよ。ただ、お酒を飲むと人が変わった。私に暴力振るうようなことはなかったけど、よう、外で問題起こして。結婚して五年くらいたった時に、村におれんようになったのも、お酒の席で喧嘩して、相手の人に怪我をさせたせいじゃった。
 二人で逃げるように村を出て、流れ着いたんが村と同じように海に面した地方都市よ。生きていくためには働かないかんけど、二人とも魚のこと以外はなんも知らん。着の身着のまま逃げてきたから、仕事を始める元手もない。
 困り果ててたときに、なんでか知らんけど足が向こうたのが漁港じゃった。鼻が覚えとったんじゃろうね。で、歩い取ったら、若い二人がぶらぶらしてるの見て、気いかけてくれる人がおって、その人が紹介してくれたのが魚の行商じゃった。当時は今みたいに便利じゃなかったけんね、自転車で魚を売りに来る行商がまだようけおったんよ。
 それからは、雨の日も風の日も二人で自転車に乗って魚の行商。子供が出来んかったから、魚の行商が、私と旦那さんのかすがいじゃったんだろうね。喧嘩したこともあったけど、五十年近く二人でそうやって一緒に働いた。今もこの町に残る行商じゃゆうて、新聞に出たこともあったんよ。
 最後の方は町の様子もだいぶ変わって、お客さんも減っとったけど、それでも旦那さんが病気で働けんようになるまで、私らそれで生活を立てた。旦那さんは魚の行商を止めて、一年後に亡くなった。気が抜けたんじゃろうね。
 町中を自転車で走り回っとったから、町中に旦那さんとの思い出がしみ込んどった。それが、ちょっと辛かったんよね。旦那さんがおらんようになってすぐに、私はその町を出て、この街にやってきたんよ。それがもう十年以上前のことじゃけん、時間が経つのはほんと早いわ。
 それからも、まあ色々あったけど、なんとかやってきて、もうそろそろゆっくりしようかなと思うとったときよ、自転車でご飯を運ぶ若い人たちを街で見たんよ」
 お婆さんは、何かを噛みしめるようにそこで言葉を切った。
「それがフードデリバリーだったんですね」
「なんか懐かしかったんよね。旦那さんと一緒に行商をやっとったころのことを思い出して」
 お婆さんは、そう言うとまた自転車の方に目をやった。
 この自転車は、行商をされていた頃の自転車なんですか、そう尋ねたかったが、お婆さんの様子を見ていると、なんとなくそうすることがためらわれた。
「すっかり、長話してしもたね。お茶、ごちそうさまでした」
 そう言ったお婆さんの顔には、どこか肩の荷を下ろしたような、ほっとした表情が浮かんでいた。俺は、何故だか、このお婆さんに会うことはもうないだろうなと思った。
「いえ、こちらこそ、ありがとうございました。貴重な話を伺えました」
 頃合いだった。頭を下げて、俺はその場を立ち去ろうとした。そんな俺を、お婆さんの声が後ろから追いかけてきた。
「あんた、ひとりもんかね?」
 自転車の横に立ったお婆さんが、俺の方を見ていた。
「はい、この歳で恥ずかしい限りですが」
「ほうかね。それじゃったら、寂しいときもあろがね。これ、使うたらええがね」
 お婆さんはそう言うとウエストポーチから、一枚のチケットを取り出して俺に渡した。デリバリーヘルスの割引券だった。最初は意味が分からなかった。少し考えて、余計に分からなくなった。
 思わず、失礼な言葉が出た。
「こっちも、まさか現役の行商ですか?」
 自動販売機の明かりの中、お婆さんは苦笑いと照れ笑いのちょうど中間のような表情でしわを深めて言った。
「いや、こっちは網元よ」
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