時は戻らない

文字数 2,124文字

「俺だって、本当はこんなことしたくないよ!」
 顔を紅潮させながら、逆切れ気味の口調でまくし立てる隆史の言葉を、そのまま真に受ける気持ちにはとてもなれなかった。
 隆史とは大学のサークルの新歓コンパで知り合い、社会人になって五年目に結婚。その結婚生活も早や五年。付き合いが長いだけに、後ろめたいことがあるときほど、強く反発する隆史の性格も知り尽くしている。
 基本的には小心者の善人なので、このモードに入った時は、普段であれば何も気が付いていないふりをして譲ってやっている。でも今回ばかりは、どうしてもすんなりスルーは出来なかった。
「由紀にも話さずにおこうかとも思ったよ。現実問題として、知らない方が良かったてこともあるわけだし。もちろん、それは俺のやましさからくるわけじゃない。あくまでも俺の奥さんとしての由紀の立場というか、心情を考えたときにって意味で。でも、それは違うって思い直したんだ。だって、俺たち夫婦だから。夫婦の間だけは、隠し事は無しにしようって。だから分かって欲しいんだ」。
 は?いま、夫婦の間に隠し事は無しって考えたって、おっしゃいましたか?
 ついさっき、財布を忘れたことに気が付いて買い物の途中で帰ってきた私の姿に気が付いた時のうろたえぶり、そしてその後の、怪しい薬でも使っているんじゃないかと心配になるくらいの急発進マシンガントークは、どうみても夫婦の会話と理解を前提にしたものではなくて、想定外の窮地に追い込まれた小悪党のその場しのぎのオプションB以外の何物でもないようにしかお見受けできなかったんですけど。
「社会的な意義があるんだよ。LGBTのイベントに、当事者以外の、こんな中年の男が参加するってところに社会的な意義が。由紀だって、大学の時、社会課題系のイベントに参加してたじゃないか。学生時代は、きちんと自分の意見があって、周りの人間にどう思われようと、それを自信をもって発信してたのに、歳を取ると周りの目ばっかり気にして、長いものに巻かれる、俺そういうの嫌なんだよ」
 さも自分は学生時代から社会活動に積極的だったみたいなものの言い方だが、実際には私が大学でイベントに参加していた時は、隆史はサークルのボックスで麻雀ばっかりしてた。今だって、ごみの分別一つ手伝おうとしない。面の皮の厚さはお義母さん譲りに違いない。
 しかも、申し訳ありませんが、私は先週も市民ボランティアに参加してましたからね。
「それにさ、ここだけの話、正直、社内の目もあるんだよ。ほら、俺、去年の春に課長になっただろ。課長なんて、聞こえはいいかもしれないけど、結局のところは中間管理職なわけだよ。丸投げの部長と、自分勝手なメンバーの間に立たされて、権限もないのに、こういう社内イベントの成否はミドルマネジメントにかかってる、なんてプレッシャーかけられてさ。ふざけんなって言いたいところだけど、実際、意外とこういうところの働きで、人事が決まったりするんだよ。そろそろ、マイホームとかも考えたいしさ。ほら、由紀、キッチンが広いとこに住みたいって言ってたし」
 私も仕事をしているから、課長職が大変なことは見ていて分かる。うちの課の課長は私よりも歳が五つ下の若手課長だが、部長にも私たちにも気を使って心身をすり減らしている様は、見ていて痛々しいくらいだ。しかも、私たちのころに比べても、若い子たちはそもそも会社のイベントの参加に消極的というかイベント自体に否定的だから、その分のしわ寄せも来るのだろう。
 だから、その点をとやかく言うつもりなんてまるでない。私が言いたいのはそこじゃない。し、私が何度、住宅展示場に行こうと誘っても、本当はめんどくさいからだけなのに、なんだかんだと言い訳して、先延ばしにしてきたのはどこの誰だ。
「そうか、あれか、由紀が気に入らないって言うか、気にしてくれてるのは、参加方法的なことか。分かる、分かるよ、そこが引っかかるのは。俺も悩んだ。悩んだけど、最終的にマイポリシーが勝った。あ、ポリシーっていうのはさ、結局何事もそうだと思うんだけど、費用対効果なんだよ。このケースで言い換えたら、そこにかかる労力、あるいは失うものと、アウトプットとのバランス。そう考えたときに、たしかに、俺が女装して会社に出勤することによるマイナス面は大きい、大きいよ。でも、その見返りとして得られる会社に与えるインパクトを考えてみたら、思いつく限りの他のどんな参加方法と比較しても、俺の結論としては、一番効率が高いんだよ」
 効率?効率って、いったい何の効率だ。アウトプット?一体お前はどこに向かおうとしているんだ、私の夫、隆史よ。さっき私が見た、クローゼットの前で意気揚々と衣装を選んでいたあの様子はなんだったのだ。結婚一度も見たことのなかったような、あの至福の表情のどこに、自己犠牲と社会貢献を見出せというのだ。
 駄目だ、らちが明かない。
「分かった、このままじゃ由紀も納得できないってことだな。でも、俺もどうしてもこの件を完全に無しにすることはできない。だから、こうしよう。網タイツは我慢するから、タイトスカートは認めてくれ」
 ほんと、この時間を返してくれ。
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