母は強し、子も剛

文字数 3,971文字

 気は優しくて力持ちという言葉があるが、高校生になる俺の息子、剛にはその言葉が良く似合う。
 自分の息子のことを表現するのには、あまり使わないのだろうが、ほんとぴったりなのだ。俺が知る限り、気は優しくて力持ちの元祖(なのかどうか、正確なところは知らないけど)、金太郎に次いで二番手争いに顔を出すくらいにぴったりだ。
 剛は、小さく生んで大きく育てるという最近のセオリーを無視どころか、あざ笑いでもするように、四千グラムを超える体重で大きく生まれて大きく育ったのだが、それも当然だった。
 まず、よく食べた。
 それだけ大きな赤ん坊を出産するだけあって、俺の奥さん、明子さんは大柄な女性だ。
 子供の頃、お兄ちゃんの影響を受けて野球を始め、高校生の時にソフトボールに転向。そのまま実業団のチームでプレーした。身長も170センチ近くある。ただ背が高いというよりも、全体的にがっちりしている。巨乳というのとはジャンルが違うが、いかにも母乳だってたくさん出そうだ。
 ところがその明子さんの母乳ですら、剛には全然足りなかった。一日に何度も、粉ミルクのお代わりが追加された。そのおかげで剛は、すくすくと(と言うかムチムチと)成長したが、剛に生気を吸い取られてしまったように、明子さんはげっそり痩せた。
 あと、良く寝た。食べたら寝た。何なら、食べながら寝た。
 寝てくれるのは助かった。あれだけエネルギーを奪われて、その上、寝かせてもらえなかったら、さすがの明子さんでも倒れてしまったに違いない。この頃俺が仕事から帰ると、明子さんのおっぱいを咥えたままの剛と、咥えさせたままの明子さんが、よく一緒に寝ていたものだ。
 そして、良く動いた。巨漢の赤ん坊が、活発に動き回る様というのは、なかなかに壮観だ。しかも、剛の場合は、その動きが俊敏だった。言葉は悪いけど、動けるデブっていう感じだった。どこをどうしたのか、気が付けば自分の身長くらいあるベビーベッドの柵を乗り越えて、脱走していることさえあった。
 そんな剛が、物心がつくと、スポーツに興味を持つようになったのは、ある意味で必然だった。
 幼稚園の時には、わんぱく大相撲に出場して市内では無敵を誇った。小学生になっても相撲は続けていたが、それに加えて少年野球に熱中し、不動の四番キャッチャーとして活躍した。中学校では、その体格の良さから、半ば強制的に柔道部に入部させられたが、ここでも団体戦で県大会ベスト4の原動力になった。
 そして去年、高校に入学した剛が出会ったのがラグビーだった。強靭な肉体と俊敏性の両方が求められるラグビーは、剛にもってこいだった。相撲も野球も柔道も真剣に打ち込んでいたけれど、ようやく剛自身が本当にやりたかったものと巡り合えたんじゃないか、俺にはそんな風に見える。
 とまあ、こんな風に活発な剛だけど、これだけ活発なら少しやんちゃで、親に迷惑をかけてもおかしくない。というかそれが普通だと思う。ところが、親ばかと言われるかもしれないが、剛は本当に優しい子供に育ってくれた。
 家族だけでなく、同級生、下級生、近所のおじいちゃんおばあちゃん、ほんと周りの誰にでも分け隔てることなく優しい態度で接している。ただ、その中でも、明子さんは特別だ。
 母の日のような記念日に何か贈るというようなことだけではなくて、毎日の生活の中でも、自発的にお手伝いをするし、常に明子さんのことを気にかけ、明子さんの命令には絶対服従だ。
 その態度を見ていると、優しさというよりも尊敬の念すら感じるほどだ。
 だからと言うのでもないのだろうけど、これだけスポーツをしていても剛は、怪我をして明子さんを心配させたことがない。病気もない。便秘がひどかったくらいだ。
 そう、3歳くらいまで、剛は重い便秘に苦しんでいた。というか、便秘を怖がっていた。
 たくさん食べるから余計に気持ち悪かったんだと思うし、便秘が何日か続くと明子さんが持ち出してくる、浣腸のことも恐れていた。そもそも、排便と言う行為自体も恐れていたようなところがあった。
 動物的本能に恵まれた剛だからこそ、無防備になる瞬間を恐れていたのかもしれない。排便時になると、剛は俺たちから隠れようとした。今となっては微笑ましい思い出だけど、剛の姿が見当たらないと、うちの中を探すと、クローゼットの中でこっそりと立てったままで、排便に苦戦している剛を見つけることがよくあった。
 ところで、ソフトボールと野球と言う繋がりの他に、剛の明子さんに対するリスペクトの原点なのではないかと俺が考えている場面にも、剛の便秘は関係している。
 その日俺が浜松駅から出ると、明子のお父さんが車で迎えに来てくれていた。簡単にあいさつを交わして助手席に乗り込んだ車の後部座席には、うちから持ってきたチャイルドシートが装着されていて、ずどんと剛が据えられていた。
「お父さん、来た。びっくりした」
 言葉の方はそれほど達者じゃなかった剛は、俺の久しぶりの登場に対する興奮を顔いっぱい、体いっぱいで表現し、俺が頭をなでてやると、にっこりと笑った。
「昨日の夜は、大変だったんじゃないですか?」
 お義父さんが車を発進させると、俺は尋ねた。
「まあ、大騒動だったね、いきなり夜中に起こされて。準備って言うのは、出来ているようで、いざその時になるとできていないものだから、あれがないこれがないって、家じゅうひっくり返して」
「剛も、起きてきましたか?」
「いや、剛君はいつも通りぐっすり寝てた」
 褒められたと勘違いしたのか、後部座席で剛が満足げな表情を浮かべた。
「病院までは、順調に?」
「夜中だったから、道は空いてた。ただ、万が一ってことがあるといけないから、いつも以上に慎重に運転してると、明子が早くしろ早くしろって喚きたてて、それが大変だった」
「なんか、病院に着いてからも、早かったみたいですね」
「早いって言うか、病院に着くまでなんとか我慢してもらったくらいだよ。ほんと、分娩室に入ったかと思うと、すぐにお医者さんが出てきて、無事生まれましたって」
「剛の時は、あんなに時間がかかったのに」
「剛君は一人目だったし、あのサイズだったからね」
 お義父さんが苦笑を浮かべ終える頃に、車は病院に到着した。
 里帰り出産で実家に帰っていた明子さんから、陣痛が始まったと連絡が来たのは、日付が変わる直前。風呂上がりのビールを飲みながらプロ野球の結果をチェックしようかとパソコンを立ち上げたときだった。
 お義父さんとの話にも出てきたが、剛の出産のときは長丁場だった。なので、夜明かしを覚悟して、ビールから少し強めのお酒に切り替えようかと、席を立とうとしたら、お義父さんから、「無事出産、母子ともに健康」の連絡が来た。
 ほっとしたような、拍子抜けしたような。そんな長女、智子の誕生だった。
 翌日は金曜日だったので、普通に仕事をして、翌々日の土曜日に浜松に移動して、お義父さんと剛に合流したというわけだ。
 明子さんが智子を出産した産婦人科病院は湖の側にあり、エントランスホールから湖を見渡すことができた。青空の映える良く晴れた朝で、太陽の光にあふれた空間はまるでリゾートホテルみたいで、テンションの上がった剛が走り回って、捕まえるのに苦労した。
 しかも、ようやく捕獲した剛は、一体何キロあるんだというくらいに重い上に、暴れまわるので、エレベーターを待っている間は、一本釣りしたマグロと甲板で苦戦してるような気分になった。
 やっとのことで、三階の明子さんの病室の前にたどり着いて、俺はそこで急に緊張した。それまでは、剛の対応に気を取られて、あまり考えていなかったのが、今から自分の娘に初めて会うんだという実感が急に湧いてきたのだ。
 で、気が付いた。ああ、剛も緊張してたんだなと。自分の家族に変化が生まれたことを肌で感じて、剛は剛なりに緊張してたんだなと。
 案の定、病室に入った途端、さっきまで大暴れしていた剛は急におとなしくなり、俺の後ろに隠れてしまった。
「お疲れ様」
 そんな剛を、苦笑いを浮かべながら見ている明子さんに、声をかけた。
「疲れた」
「でも、今回は早かったみたいだね」
「産むのは早くても、お腹の中で育むのに10か月かかってるからね」
「たしかに」
 そして、明子さんに抱かれている赤ん坊を見た。まだ智子と言う名前が付く前、顔はくしゃくしゃで、目も開いていない赤ん坊は、俺に似ているかどうかはおろか、男の子か女の子かも見た目からは判別できないくらいだった。
 でも、間違いなく、俺の娘だった。そう思うと、ぐっとこみ上げてくるものがあった。
「おい、剛、見てみろ、お前の妹だぞ」
 何だか、照れくさくて、剛に振って自分の感情をごまかした。
 一方で剛は剛で、まったくらしくなく、もじもじとするだけで、俺の足にしがみついたままだった。
 仕方ないから、もうひと踏ん張りして、ベッドの上に持ち上げた。
「ほら、どうだ」
 持ち上げられた剛は、通常スイッチが入ったように暴れようとした。だが、その暴れ方はいつもと比べれば、まるで本気じゃなかった。実は、自分の妹やらが気になってしょうがなかったのだ。一応ひとしきりジタバタして、それから諦めたポーズを見せると、いよいよ剛は仕方なくと言う風にベッドの上の赤ん坊に目を向けた。
 そして剛は、びっくりした。驚愕と言う方が近くいくらいに、びっくりした。鼻の穴を大きく膨らませ、これ以上ないほどまん丸な両目を大きく見開いた。その目には、畏敬の火が灯っていた。
 そのとき俺は目撃したのだ。明子さんに対する剛のリスペクトの原点を。
 いかにも思わず言葉が漏れたという感じで、ため息混じりに、剛は呟いた。
「こんな、おっきいの出したの・・・?」
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