本質的に同じ

文字数 4,047文字

 本とかセミナーとかを問わず、世間でハウツーと呼ばれるようなものはほんと馬鹿らしい。もっと言えば、ハウツー好きな人間は馬鹿だ。
 知識を習得しようとしたり、何かのスキルを体得しようと思うことは素晴らしいけど、そのプロセスで、ハウツーを利用して楽しようとするなんて論外だ。ハウツーを容易に信じるという思考にいたっては、浅はか以外の何物でもない。
 知識やスキルが得たいのであれば、努力して自分で勉強すれば良い。それが本来あるべき姿だろう。しかも、その方が本当の意味で自分のものになるはずだ。ハウツーは近道なんかじゃない。むしろ遠回りだ。ハウツーから得られるものになんて価値はなく、貴重な人生の時間を浪費していると考えるべきだ。
 そんな風に私は心の中で長々と毒づいた。
 正直、極論が過ぎるなと自分でも分かってはいた。それでも、悪態が止まらなかったのは、毒づいている内に、自分で自分の言葉にヒートアップしてきたという面もあったが、それ以上に、その瞬間に私が置かれていたシチュエーションの影響が大きかった。
 私は、ハウツー、しかも恋愛セミナー会場にいた。
 別に、ハウツー信者を嘲笑うために、わざわざ足を運んだわけじゃない。さすがに私もそこまで暇じゃないし、そんな余裕もない。そう、余裕がないのだ。アラサーよりも確実にサーが現実ものになりつつあるにも関わらず、恋愛経験がコバルト文庫程度にしかない私には、これからの人生で時間をかけて恋愛テクニックを身に着ける余裕なんて。
 もともとハウツーに対してネガティブな印象を持っていることは事実だ。それでも、背に腹は代えられない、と意を決して、毎週水曜日に神保町の雑居ビルの一室で開催されている恋愛セミナー(誰でもマスターになれる!と謳われた)の無料体験に申し込んだのが二週間前。
 そして、教室に足を踏み入れた瞬間に、止めどない悪口が私の中で渦巻き始めた。
 覚悟はしてきたものの、ハウツーの現場の実状に私はショックを受けたのだ。
 最初にショックだったのは、事務的に並べられたスチール机とパイプ椅子や、壁に貼られたこの学校でカラオケセミナーの講師を務めているという見たこともない演歌歌手(らしい)のポスターという、愛について真摯に学ぶ場所とはあまりにかけ離れた、そんな教室の風景だった。
 そしてとどめを刺すように、教室に集った生徒たちの様子が、私の心をぽきりと折った。
 机の上にはメモを取るためのノートとボールペン、そして大事なところをハイライトするためのマーカーがきちんと並べられ、まだ授業開始の五分前だというのに姿勢正しく前を向いた彼女たちの、この場所で恋愛の極意を学ぼうとする姿勢には迷いがなかった。
 いや、違う。誰だって、この教室を見れば疑問が生じるはずだ。この場所で、恋愛について何かを得ることができるのだろうかと。疑問が生じないわけがない。
 ただ、彼女たちは疑問を振り切ったのだ。この場所のうさん臭さを分かってて、敢えて気付かない振りをした。何故か?彼女たちには余裕がなかったのだ。私のように。
 そう、彼女たちは鏡に映った私自身だった。目を背けてきた現実を突きつけられた私は、うろたえ、そしてどこでもいいここではないどこかに駆け出していくかのように、恋愛セミナーの大分類たるハウツーを、ハウツーを信仰する全ての人類を罵倒し始めたというわけだ。
 なんてことはない、私は自分で自分を嘲笑っていたのだ。
 だが、悪魔に魂を売ってしまった私に、もはや他の選択肢はなかった。
 私は、ひとしきり、自分で自分を嘲笑うと、前方のホワイトボードがきちんと見える席に座り、そして十五人の私のコピーたちと同じように、机の上に筆記用具を並べ始めた。私が通うべきなのは、恋愛セミナーなどではなく、セラピーなんじゃないかと思いながら。
 席についてしばらくしてそのリズムに気付いた時、最初私は、自律神経を失いつつある私の不整脈か何かかと思った。だが、それにしてはやけにはっきりと、そのリズムは私の耳に響いた。しかも、それは少しずつ私たちがいる教室に近づいてきているようだった。
 他の生徒の耳にもその音は聞こえていた。その証拠に、音の高まりに合わせて、部屋の中の緊張感もまた高まっていった。その音が教室の入り口付近でぴたりと止まった瞬間、私は、生徒たちが背筋を伸ばすのを見た。そして、一昔前の昼ドラで妖艶な未亡人を演じていたような容姿の女性が、ハイヒールでリズムを刻みながら颯爽と登場した。
 後から聞かされたのだが、それが講師の冠秋名(どんな名前だ)だった。
 ホワイトボードの前に立つと、彼女はにっこりとした笑顔を浮かべ教室の隅から隅までを見回すと、その表情のまま、どこまでも穏やかに一言目を発した。
「浮気は、ゴキブリです」
 最初に奇をてらった発言をすることで聴衆の注目を集めるというのは、一般的なやり方だ。とは言え、それはあまりにも私の想像の斜め上はるか上空を行っていた。不覚にも、彼女に惹きつけられるように、私はぐいと少し身を乗り出していた。
 私ですらそうだったのだ。他の生徒たちの反応は、言わずもがなだった。
 最初の一言目は成功した。そのことは誰よりも冠自身が一番よく分かっていたはずだ。だが彼女は、そんなことおくびにも出さず(いや、ひょっとしたら、彼女にとってはそんなことは本当にどうでも良かったのかもしれない)、声のトーンも変えず二の矢を放った。
「前回までの授業では、いかに殿方の心を掴み恋愛関係に持ち込むかということに関して、心構え、テクニック等を共有させていただきましたが、今日は、恋愛を継続的なものにするため、あるいは手に入れた恋愛が継続すべきものなのかどうかを判断する上で、避けては通れないテーマ、浮気についてお話ししたいと思います。まず、最初に誤解して欲しくないのですが、私は殿方がゴキブリだと言っているのではありません。もちろん、全ての殿方がそうでないと言っているわけでもありませんが」
 そこで録音していたような笑いが起こると、彼女はとってつけたように満足そうな表情を浮かべ、それからとってつけたような真顔に切り替えて話を続けた。
「私が言っているのは、浮気という行為がゴキブリだということです。なぜ、わざわざゴキブリを持ち出すのかということですが、それはゴキブリと浮気がほぼ同一であり、ゴキブリを用いて説明することが、浮気の本質をあなた方の心に刻み込むのに有効だからに他なりません。
 ゴキブリと浮気には、大きな類似点が三つあります。
 まず、一つ目の類似点は、目に映る現象と実際の状態の因果関係です。一匹のゴキブリを見つけたら、少なくとも十匹のゴキブリがいると思えと良く言われますが、浮気も同じです。もしあなたが、殿方の一つの浮気を見つけたとしたら、あなたが見つけていない浮気が十個はあると考えるべきです。
 ゴキブリも浮気も、隠れよう隠そうとする本能に変わりはありません。たまたま、部屋に迷い込んできた一匹のゴキブリや、一夜限りの行きずり浮気を目にしただけと考えるのは愚かなことです。そのまま放置してしまえば、他の九匹・九回を見逃すことになるだけではなく、新たな九十九匹・九十九回を生むことにもなりかねません。ゴキブリと浮気には巣があるのです。
 二つ目は、あなたの精神に与える影響です。
 ゴキブリも浮気も、目にすることで、あなたは心に深刻な傷を負います。しかもそれだけじゃない。それからあなたは、それを目にすることがなくても、その影におびえるようになります。  
 夜寝室で眠ろうとしたとき、部屋の隅から聞こえてきたカサコソという音がしたり、殿方が週末に少しでも一もと違う行動を取ったりすると、あなたはそこにいるかもしれないゴキブリ、あるかもしれない浮気におびえることになる。
 世間一般で言う、疑心暗鬼に陥った状態です。この状態の恐ろしいところは、悪があなたの外に存在するのではなく、あなたの心の中に巣食うということです。これは本当に辛いことです。そして、この疑心暗鬼という、もっとも忌むべきと言っても過言ではない苦しみを与えるということが、二つ目のゴキブリと浮気の類似点です。
 そして、最後の類似点は、おぞましいまでの生命力です。
 できることなら誰だって正面から向き合いたくはないゴキブリと浮気、それでもあなたが勇気をもって戦いに挑んだとしましょう。その戦いは決して楽なものではありません。しかしその一方で、ゴキブリは結局のところは見た目が気持ち悪いだけの虫に過ぎませんし、浮気は浮気です。
 あなたが、ひるむことなく全力で戦えば、勝利を収めることは十分に可能です。踏み潰してやれば良いんです。そうすれば、ゴキブリや浮気はあなたの目の前で無様に横たわり、その残骸を晒しだすことになるでしょう。
 ところが、ところがです。戦いを終えて、勝利を確信したはずのあなたが安堵のため息を吐いた瞬間。動けるはずもない姿をさらしていたはずの奴らは、信じられないことに猛スピードで逃げ去っていくのです。足がもげていようが、身体がひしゃげていようがお構いなしに。
 そして、あなたの目の届かないところまで逃げ切った彼らはじっと湿っぽい台所の陰やアパートの一室で息を潜める。ゾンビのような姿をあなたが再び目にするその日まで。
 ああ、げに恐ろしきは、ゴキブリと浮気の生命力」
 ここまで一気に話しきると、彼女はまるで自分の目の前にゴキブリや実体としての浮気が存在でもしているかのように、ブルブルと身体を震わせて、そして従順たる彼女の僕の中でも、一番前の席に座ったいかにも気の弱そうな生徒に話しかけた。
「どう、ゴキブリと浮気一卵性双生物だって言うことは分かってもらえたかしら?」
 生徒は、小さな、それでも予想外にはっきりとした声で答えた。
「ビジュアルのインパクトが強すぎて、話が頭に入ってきませんでした」
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