父娘バイシクル

文字数 2,923文字

 その瞬間、先日会社で受けた、アンコンシャスバイアス研修のことを思い出した。
 アンコンシャスバイアスとは、「無意識な思い込み」のことだ。例えば「この女性はお子さんがいるから、出張はしたくないだろう」と本人と会話することなく、上司が勝手に決めつけたりすることがそれに該当する。
 性別だけではなく、国籍や年代、性的嗜好等が異なるメンバーの一人一人が活躍できる多様性のある組織作りをする上では、そんなアンコンシャスバイアスを無くすことが重要な課題だと言われている。というわけで、組織責任者は全員研修を受けさせられた。
 受ける前は懐疑的というか、あまりピンと来ていなかったのだけれど、受けてみれば興味深く、そして実践的な研修だった。
 さっきの例のように分かりやすいものから、言われてみればたしかにそれも思い込みだったんだなと気づかされるようなものまで、さまざまな種類の無意識な思い込み例は参考になったし、アンコンシャスバイアスを発生させないための思考法も納得性が高かった。
 早速、その翌日から無意識な思い込みをなくすように意識した。正直疲れたが、多様性の実現という崇高な目的に向けて努力していると考えると、悪い気分じゃなかった。自分なりに改善しているつもりでもいた。
 ところが皮肉なことに、それ自体が思い込みだった。
 駅近くの公園を通りかかったのは、夕食の少し前の時間帯だった。いつもより早めの帰りだったのは、客先での打ち合わせから直帰したからだ。道を行き交う人の量は多かった。その一方で、遊びに来ていた子供たちが帰った後の公園は人影もまばらで、どこか寂しい感じがした。
 夕焼けの名残りが残る空の下、そんな公園に、一組の父親と娘らしき姿があった。
 すぐに自転車の練習をしてるんだと分かったのは、フラフラと危なっかしく進む一台の自転車と、「バランスだけ意識して」とか、「下を見ないで、前を向いて」とか、「足を止めないで、ペダルをこぎ続けて」と言った、十年以上に私自身が娘に自転車の乗り方を教えたときと同じような、掛け声のおかげだった。
 ただ違和感があったのは、その娘がどうみても自転車を練習するには随分と大きく、中学・高校生くらいに見えたこと。そして、父親の声が、妙に可愛らしかったことだ。
 おや、という感じでついその場に立ち止まり、父娘に目を凝らした。そして、自分のアンコンシャスバイアスに気が付いたのだ。
 自転車の乗り方を教えているのは娘で、自転車の練習をしているのは父親の方だった。
 想定していなかった光景だったし、目にしている光景の想定をひっくり返されもした。それに加えて、思わぬところで仕事の研修のことを思い出させられ、そして自分の至らなさを突きつけられたせいで、最初はひどく戸惑った。
 ところが、そんな感情のまま立ち尽くしていると、次第に胸の奥から温かいものがこみあげてきた。それどころか、気が付けば胸の奥から温かいものがこみあげてきて、ついには目頭に熱いものが滲んでいた。
 どうして、そんなことになったのか。
 まず、自分が娘に自転車の乗り方を教えたときのことを思い出して、感傷的な気持ちになったというのは大きかったはずだ。
 そう言えば、あのときの空もこんな夕焼けの残り方をしていた。自転車の乗り方を教えた頃の若かりし私は、上達の遅い娘に対してかなりきつく当たったそうで、ことあるごとに娘がその話を蒸し返してくるほどだが、私にしてみれば娘とのかけがえのない思い出の一つであることに違いはない。
 それからもう一つ。娘に自転車の乗り方を教えてくれと頼む父親と、その頼みを受けて、父親に自転車の乗り方を教える娘という構図に、おかしみを感じながらも、大げさに言えば私は感動させられたのだ。
 自転車に乗り始めたころと比べると、娘との会話も随分と少なくなった。寂しい気持ちがないわけではないけれど、それが当たり前だと思っていた。だけど、世間には娘が大きくなっても、こんなに濃厚な時間を共有する父親もいる。
 もう一つ別のアンコンシャスバイアスを突きつけられたような気がした。
 この4月から大学に通ううちの娘は、バイトや友達との遊びで忙しい日々を送っていて、夕食も家で食べることが少ないのだが、今日は家にいると妻からのさっきのメールに書いていた。
 たまには、コンビニで何か甘いものでも買って帰って、一緒に食べようと誘ってみようか。私は、右手で目じりを拭いながら、自転車と父娘の影が薄く伸びる公園を後にした。

 早春の季節の移り変わりは早い。駅を出ると私は、1週間前にはちょうど良かったコートを脱いで腕にかけた。先週よりも1時間ほど遅い時間だったが、心なしか時間の違いほど空の明るさの変化も少ない気がした。 
 公園が近づいてくると、少し気持ちが高まるのを感じた。葉桜が見ごろだったせいもあったが、あの自転車父娘の余韻がまだ心の底に温かさを残していた。
 その前の週末、私は本屋で一冊の本を買った。中年男性用のピアノ教則本だ。
 昔からピアノの曲を聴くのが好きだった。自分で弾くことはしないが、ピアノへの憧れがあり、娘には半ば強制的にピアノを習わせた。というわけで、高校生に上がるタイミングで娘がピアノをやめてしまった今でも、我が家の小さなリビングには割とちゃんとしたアップライトのピアノがある。
 せっかくだから私もピアノをやってみようかと思ったことは何度もあった。ただ、忙しさだったり、自分の不器用さを言い訳に、結局お酒が入った時に、頭をかすめる程度の思いで終わってきた。ずっとそのままなんだろうと思っていた。
 それが、一念発起というほど大げさなものではないけれど、ピアノの教則本を買って独学で練習してみようかなと半歩進んだのは、間違いなくあの父親のおかげだった。
 自分と大して歳も変わらないだろう中年の男性が、怪我をするリスクがあるという意味では、ピアノよりもハードルが高い自転車にチャレンジしているのに、鍵盤の上で指を動かすことをためらう理由がどこにあるというのだ。
 教則本を買って家に帰りピアノの前に座った私を見て、妻と娘は笑った。だけど、その目には私の挑戦を応援してくれているような光が灯っているように感じられた。
 ぼんやりと、そんなことを考えているうちに、気が付けば公園の手前の商店街まで来ていた。焼き鳥屋のたれの匂いで妻から醤油を頼まれていたのを思い出し、スーパーに足を向けようとした。そのときだった。
 人ごみを縫うように、1台の自転車が私のすぐ隣を通り抜けた。
 横顔を見て、アッと思った。あの時の父親だった。あれからも、一生懸命娘さんと練習したのだろうか。先週の練習風景が嘘のように、巧みなハンドルさばきで、淡い水色のスポーツタイプの自転車は、颯爽と、あっという間に私から走り去っていった。
 それはまるで、春風を目にしているような光景だった。
 心の底に残っていた余韻が、ポッともう一段強い温かさを発した。
 ところが次の瞬間、そんなせっかくのほっこりした私の気持ちを、少し離れた場所から聞こえてきた若そうな男の怒鳴り声がかき消した。 
「自転車泥棒っ!!」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み