ミステリーも突然に

文字数 3,207文字

 ミステリーが好きだ。
 ミステリーが好きな理由。それは何と言っても、騙される快感だろう。ミステリーで騙し騙されるのは、登場人物じゃない。作者と読者だ。実生活で騙されるのはご免したいところだけど、ミステリーで騙されるのは大歓迎だ。
 ただし、大前提がある。上手に騙してくれることだ。最後の最後に、それまで捲ってきたページに巧みにちりばめられていた伏線が回収されて、ああ、そういうことだったのか。なんで、あの時気付かなかったんだと、心が震える瞬間のために、こっちはミステリーを読んでいるのだ。
 時間をかけて読み進めて読み進めて、最後の最後に、いや、そりゃ無理があるだろうとか、それのどこか謎なんだなんて憤ることになると、ストーリーで騙されたというよりも、本を買ったこと自体が騙されたような気分になる。
 もちろん、そういう失敗をすることがないように、本を買うときにはある程度の下調べはしている。
 雑誌のミステリーランキングを確認したり、ネットでミステリー本の書評サイトを覗いたり、最近だと本屋さんのPOPとかも参考にして、これは面白そうだという本を買うわけだ。
 それでも、がっかりはしなかったまでも含めて、成功率は40%くらいだろうか。本当に、やっぱりミステリーっていいなあ、と思えるのは10%以下だ。
 決して効率が良い趣味とは言えない。でも、だからこそ、これぞというミステリーに出会えた時の喜びは大きい。本自体の出来もそうだけど、そういう本に出合えたこと自体が、感動だ。しかも、下調べなんて関係なく、何となく本屋さんや図書館で手に取った本が、1%のミステリーだったりすることだってあるんだから、これはもうやめられない。
 ところで、僕がミステリーを好きなのには、もう一つ理由がある。それは、ミステリーが日常を忘れさせてくれるということだ。
 普段の生活からはかけ離れた設定やストーリー展開のミステリーを読んでいると、その間は、日々のささいな、とは言え僕にとっては切実な、問題やストレスを忘れることができる。
 僕が、社会派のミステリーよりも、外界から隔絶されたような場所で連続殺人事件が起きるような、古典的な推理小説を好むのも、そのせいだ。僕にとって、ミステリーはファンタジーやSFと同じように、別世界の話なのだ。
 そう、ミステリーはあくまでも本で読むものであって、僕の日常生活に起こりうるものじゃない。僕は、そう思っていた。
 あの日、あのとき、あの場所までは。
 その日、僕は大学の最寄り駅の三つ手前の駅で電車を降りた。
 特別な用事があったわけではないとも言えるし、大きな用があったとも言える。通学の途中、その十分ほど前に、大きい方の便意を催した。それから周期的に襲ってくる下腹部の猛烈な痛みと戦ってきたのだけれど、いよいよ我慢の限界に達し、トイレに駆け込む必要がでてきたのだ。
 目的地の少し手前の駅と言うのは、意外と降りることがないものだ。
だからと言って、トイレを探しながら早足で歩き回るエキナカの光景に、どこか遠くの見知らぬ町をふと旅行で訪れたようなノスタルジーを感じる余裕なんてあるはずもなかった。痛みと便意との戦いで、夏にも関わらず、額や脇から流れ落ちるのは冷たい汗だけだった。
 幸いなことに、ほどなくしてトイレは見つかった。さらにツイていたのは、三つあった男性用トイレの個室のうちの一つが空いていたことだ。
 すぐに個室に入って、ズボンを下ろし、洋式のトイレに座った。すると安心感から、それまでの地獄のような時間は、嘘のように一瞬でどこかへ行ってしまった。今にも漏らしてしまいそうな便意と、それを我慢することでの猛烈な痛みは、ほんとなんだったんだっていうくらい見事に消え去った。
 すぐに終わらせてしまえば良いのに、自分自身に対して余裕をかまして、わざともう少し我慢したりもした。
 そんなこんなで、僕の冒険はハッピーエンドで幕を閉じた。
 ただ、用を足し終えてからも、下腹部には痛みと言うか、普段は感じない腸の収縮が感じられた。僕にはそれが、腸のクールダウンなのか、次の排出活動に向けてのウォーミングアップなのかが分からなかった。そうすると、さっきまでの苦しみが生々しく蘇ってきた。
 どうせ講義には間に合わない、もう少し様子を見ることにした。
 暇だった。お腹に手を当てること以外に、やることがなかった。壁の落書きは、バリエーションもその質も、世界中の公衆トイレの落書きのそれと同じで、まったく不足していた。スマホは下ろしたズボンのポケットに入れていて、取り出すのがめんどくさかった。
 だからと言って、僕が隣の個室に関心を向けたのは、ひとときのお隣さんの観察で暇つぶしをしてやろうなんて考えたからじゃなかった。
 ただ、少し気になったのだ。
 僕が入った個室は一番左側。僕が入った時には、残りの二つの個室は埋まっていた。その内、一番右側の個室には、僕が入ってすぐに利用者が入れ替わった気配があった。だけど、僕の隣の個室には、それがなかった。
 それだけなら別に何でもない。でも、それだけじゃなかった。隣の個室は、人の出入りの気配がなかっただけでなく、やけに静かだった。用を足す音、それに付随する音、その前後に発生する音、その一切が聞こえて来なかったのだ。
 駅の公衆トイレの個室なんて、(お世話になっていて申し訳ない話だけど)使わなくて良いなら使いたくないものだ。利用したら、駅の公衆トイレの個室を使ったという記憶を消し去りたいかのように、そそくさと立ち去るのが普通だ。
 一体、隣の彼は何をしているのだ?
 その時、僕は思ったのだ。ああ、日常生活の中にもちょっとしたミステリーはあるんだな、と。
 ところが、このちょっとしたミステリーもどきが、実は、その後の僕の人生を変える事件のエピローグでしかなかったことを、もちろんこの瞬間の僕は知る由もなかった・・・、なんてことにはならなかった。
 回りくどい前振り的なエピソードは起きなかったし、怪しげな登場人物たちも登場しなかった。ただそれでも、僕のちょっとしたミステリーもどきが、もっと大きな、恐らくは僕の人生の中では最大であろうミステリーに繋がっていたのは事実だ。
 僕のそれは、ミステリーに付き物の紆余曲折とはまるで無縁に、一直線に謎へと突き進んで行った。
 こんな風に。
 隣の彼の動向が気になった僕は、もう少し注意深く耳を傾けた。すると、まるでその時を待っていたように、隣の個室の時計の針が動き出した。
 最初に聞こえてきたのは、ウォシュレットの音だった。最近は駅の公衆トイレでも、ウォシュレットが備え付けられているところは多い。だからそれ自体は、謎でもなんでもなかった。問題はここからだ。
 永遠に僕が顔を知ることのないだろう隣の個室の彼は、ウォシュレットに続いて、トイレットペーパーを絡めとり、水をふき取っていたのだろうしばらくの間を挟み、ズボンを履き上げると、トイレの水を流し、そして個室の扉を開け僕の手が届かない世界へと足早に立ち去って行った。
 訝しそうな表情を浮かべたくなる気持ちは十分に理解するけど、もう少しだけ僕の話に付き合って欲しい。
 話の核心に触れるその前に。これだけは、言っておきたい。それは決して聞き間違えなんかじゃなかった。僕は、はっきりとこの耳で聞いたのだ。僕がこれからの人生の中で、ことあるごとに思い出し、そして頭を悩ますことになるであろうミステリーを。
 僕は聞いた。トイレの水を流してから、扉を開けて立ち去るまでの間に、彼が、もう一度ウォシュレットを使用する音を。
 どういうこと!? 
 その瞬間、以前に夕方のテレビの再放送で見た、昔のラブストーリードラマの主題歌の特徴的なギターイントロが僕の頭の中で掻き鳴らされ、僕の頭に文字が思い浮かんだ。
 ミステリーも突然に。
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