襷をつなぐ

文字数 3,221文字

 葬儀場の祭壇に飾られた親父の写真を眺めていて、俺の心に湧き上がってきたのは、悲しみよりも悔しさだった。どうしてあと一年頑張ってくれなかったんだという、親父への悔しさ。でもそれは、どうしてもっと頑張れなかったのだという、俺自身への悔しさを押し隠すためのカモフラージュに過ぎないと自分でも分かっていた。
 葬儀のその三日前、俺は早稲田大学の入試に落ちた。
 仲良しの父子だとはとても言えなかった。普通の父子というものがどういうものだかは分からないが、子供時代を振り返ってみて、例えばキャッチボールにしてもプラモデル作りにしても、俺には何かを親父と一緒にしたという記憶がない。
 そもそも、人付き合いが苦手な人だった。友人や同僚を家に連れてきたということもなかったし、家族での夕食の時も、自分から何かの話題を切り出すことはおろか、俺と母親の会話に反応することすらなく、ただ黙って食事に箸をつけ、ビールのグラスを傾けていた。
 そんな親父が年に一度だけ、感情をあらわにするイベントがあった。
 箱根駅伝だ。
 毎年1月の2日と3日の2日間、親父はテレビの前に陣取り、普段はあまり口にしない日本酒を飲みながら、母校の早稲田大学を応援した。レース中は応援に没頭し、お袋や俺が声をかけても気づかないほどで、時には興奮しすぎて叫び声を漏らしさえした。
 チーム全員で一本の襷をつなぐ駅伝には、マラソンとは違う喜びと残酷さが同居している。そしてそれが、急峻な山道の上り下りを含む東京・箱根の往復という過酷なコースを舞台に、各大学の威信を背負ったランナーたちが、自分たちの青春の全てを賭けて臨む大会となれば、面白くないわけがない。
 輝かしい勝利とコントラストを成す悲劇的な敗北も、きっと日本人の嗜好に合致するのだ。その人気の高さを説明するために、毎年のテレビ中継の視聴率の高さを持ち出すまでもないだろう。特に自分の母校が出場しているとなれば、応援に熱が入るのはなおさらだ。
 そしてうちの親父も、そんな熱狂的な箱根駅伝のファンの一人だったというわけだ。
 子供の頃の俺は、食い入るように箱根駅伝のテレビ中継にかぶりつく親父を、冷ややかな目で見ていた。大の大人が、順位の変動のいちいちに一喜一憂する様子は、客観的に滑稽なものだ。それにうちの親父の場合は、普段の親父とのキャラのギャップ、熱量の違いが大きすぎた。
 だがその一方で、自分では自覚していなかったが、俺にはそっち側の親父に近づきたいという思いがあったのかもしれない。いや、きっと親父にその熱量を俺にも向けてもらいたかったのだ。
 中学に入学すると、俺は陸上部で長距離を走り始めた。そしれいつの頃からか、早稲田大学の陸上部員として、箱根駅伝に出場することが俺の目標になっていた。
 もちろんそれが簡単な目標でないことは、俺にだって分かっていた。だが、今となってみれば不幸なことに、俺にとってそれは、頑張れば手が届くところにある目標だった。
 中学を卒業し進学した高校は県内でも有数の進学校で、早稲田の合格者も毎年二十名程度出ていた。陸上の方も順調で、高校二年生の時には県大会の1万メートルで2位になり、都道府県対抗駅伝の候補選手にも選ばれた。
 そんな風にして迎えた高校三年生は、俺にとって文字通り勝負の一年になるはずだった。ところが、そんな勝負の一年に俺の人生の歯車は大きく狂ってしまった。
 膝の怪我だ。中学時代から、抱えていた爆弾ではあった。ただ、持病であったが故に、自分では付き合い方が分かっていると過信していた。ところが今回はこれまでと違った。春先から抜けるような感覚が出るようになり、やがてまったく力が入らなくなった。
 練習を休みたくなくて、病院に行くのを遅らせていたのも良くなかった。いよいよどうにもならないと、かかりつけの病院を訪れたときには、俺の膝は日常生活を送ることすら困難なレベルに悪化し、もう二度と競技者として長距離を走れるようになることはない。俺の膝を一目診察した顔なじみの医師は、俺自身よりも辛そうに、だけどはっきりと俺にそう宣告した。
 5年間打ち込んできた陸上からの、突然の引退。自暴自棄になってもおかしくなかった。だが、そうならなかったのは、俺には早稲田に入学するという、もう一つの目標があったからだ。
 たしかに、早稲田の陸上部員として箱根駅伝の襷をつなぐことはできなくなった。だが、親父と同じ大学に入学することができれば、親父からの襷を受け取ることになるんじゃないか、そんな思いが俺を救ってくれた。
 それからは、受験勉強に没頭する毎日だった。それまでも学業を疎かにしてきたつもりはなかったが、やはりそれまで以上に時間が取れるようになったこと、そして陸上で鍛えた精神力も支えになってくれたのだろう、成績はみるみる上昇し、夏休が終わる頃には模試の合格判定でAが出るほどまでになった。
 受験プランにも気を配った。第一志望の早稲田の前に、受験科目が同じで試験問題の傾向が似た二つの私立大学の入試を組み込んだ。受験のピークを合わせるため、敢えて連戦を設定した。偏差値的には早稲田とあまり変わらない学校を選んだのは、滑り止めとしての受験ではなく、あくまでも早稲田入試に向けた調整という位置づけだったからだ。
 そして、受験期を迎えた。
 変な緊張感はなく、適度な高揚感とやることはやり切ったという充実感があった。体調も万全で、一校目の入試を終えたときには、合格を確定したほど調子も良かった。ところが、その入試の日の夕方に二つ目の歯車が狂った。
 親父が脳梗塞で倒れた。
 ここで一つはっきりさせておきたいのは、俺が早稲田の入試に失敗したのは、親父のせいではないということだ。この時点で俺は親父の症状がそこまで悪いと思ってもいなかった。親父のために出来ることは、回復を祈ることよりも、早稲田に合格することだと考えてもいた。
 実際、その翌日の二校目の受験も問題なくやり切った。そして、一校目と二校目は、その手ごたえ通り合格を勝ち取ることが出来た。だから、俺が早稲田に合格することが出来なかったのは、ただ単に俺の実力が足りなかったからだ。
 そして、その事実を俺に思い知らせるように、俺が早稲田不合格を知ったその日、親父は結局一度も意識を回復することなく逝ってしまった。
「俺、親父に何も親孝行ができなかった」
 葬儀場の最前列の椅子。お袋と二人きりになった瞬間、思わずそんな言葉が漏れた。
「そんなことないわ。和彦は、お父さんにとって自慢の息子だったわよ」
 俺の肩に手をかけたお袋の、そんな言葉がむしろ辛かった。
「でも、俺、陸上も辞めちゃったし、結局早稲田にも入ることができなかった」
「別に、早稲田大学だけが大学じゃないじゃない。和彦が合格した他の大学だって、世間的には十分、早稲田大学と肩を並べるような立派な大学よ」
「そうかもしれない。だけど、俺は早稲田に入りたかった!早稲田に入って、父さんの襷をつなぎたかったんだよ!!」
 感情に流されて、つい強い言葉が出た。そして俺は、思春期を過ぎてから初めてお袋の前で泣いた。
「襷って、お父さん早稲田大学なんて出てないわよ」
「え・・・?」
 お袋の言葉の意味が理解できなかった。俺の頭はひどく混乱し、行き所を失った涙が唇に触れた。
「でも、箱根駅伝見ながら、いつも、母校の早稲田大学って応援してたよね!?」
「ああ、あれ。あれは冗談よ。和彦も当然知ってるものだと思ってたんだけど、お父さん、和勢田大学って早稲田大学と読み方が似た大学の出身なの」
 若くして亡くなった夫の葬儀には似つかわしくない、苦笑いを浮かべてお袋は続けた。
「普段は冗談なんて言わない人なのに、毎年、箱根駅伝の時になると嬉しそうに母校の早稲田大学、母校の早稲田大学って馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返してたの。何を気に入ってたんだか」
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