薙ぎの世界

文字数 3,476文字

 老いるとは、センサーが劣化することだ。
 目が見えにくくなったり、耳が遠くなったりといったハードウェア的なものもあれば、記憶力が衰えたり、相手の感情に対する機微を失ったりといったソフトウエア的なものも含めて、人間としてのありとあらゆるセンサーの劣化だ。
 それが故に、老化は私の職業人生を脅かし、私は老いることを恐れ、忌み嫌ってきた。
 私の生業は、梱包や商品のパッケージを扱う、インダストリアルデザイナーだ。都心から少し離れた芸大を卒業して、最初は家電メーカーに就職したのだが、三十歳になる前に個人事務所を設立して独立。気が付けば、会社員なら定年退職する歳になった。
 説明の必要もないだろうが、デザイナーの仕事は感性の仕事だ。他人とは違う感性で斬新なデザインを創り出し、そのデザインでどれだけ多くの人に強い印象を与え、どれだけの多くの人から共感を得るか、デザインの成否はそれに尽きる。ベースとなる最低限のスキルは必要だけれど、独自の感性を持たないデザイナーに存在価値はない。
 その感性を支えるものこそが、センサーだ。もちろん、そこで求められる感度は、一般の人が日常生活で求められる以上に高い。特に、時代を映す鏡というデザインの特性から、新しい絵画や音楽といった芸術や、社会的な流行に遭遇した時に、そこから何を感じ取ることができるか、そのセンサーの重要性は高い。私にとっても同様だ。
 ただその一方で、日々の生活の中における自分を取り巻く環境に対してのセンサーも、私は大事にしてきた。
 美しい夕焼けを見たときに、私の目に映ったグラデュエーション。通り雨に打たれたときに、手のひらに受けた雨粒のリズム。肌にシャツが張り付いたことによって身体から失われた体温。そう言った、身近ではあっても、本当の意味での個人的な体験から、私のデザインの多くが生み出された。
 それは私の創造のスタイルであり、そして私はそのことを誇りに思っている。だがそのせいで、50歳を言過ぎた頃から、仕事中に限らず日常生活のありとあらゆる場面で、私は自分のセンサーの劣化と向き合わさせられる羽目に陥ったというわけだ。
 ちなみに、センサーの劣化が私の仕事に影響を与え始めたのはこの10年ほどのことだが、デザインにおけるセンサーの重要性はずっと意識していた。
 私が会社を辞めて独立した理由も、センサーに外的なノイズを乗せたくなかったからだった。デザインの作業に取り組んでいく中で、組織に所属していれば、周りからの干渉を受けることは避けられない。それが耐えられなかった。
 若さもあったのだとは思う。若気の至りというやつだ。
 若かった時に尖っていたという人がいるが、それはセンサーが研ぎ澄まされていたということなのだ。もちろん、個人事務所でもクライアントの意向というノイズは受ける。ただ究極を言えば、それがどうしても受け入れられないノイズであれば仕事を断るという選択肢がある。それで食べていけなければ、自分の力不足だと諦めれば良いだけのことだ。
 幸い、ここまで人並みの生活を送ってくることができたが、それはあくまでも結果論で、ノイズを受け入れることと、経済的な困窮のどちらかを選べと言われても、私は後者を選んだだろう。
 それは、理屈ではなくて私の性なのだ。私はこの歳になるまでずっと独り身でやってきたが、それはきっと、私生活でも自分以外の誰かのノイズに煩わされたくないという、強迫観念にも近い強い思いが、私の根底に流れているからなのだと思う。
 自分の家族を持つことができたら、どんな風になっていだろうかという考えが頭をよぎることはあるが、後悔はない。
 そう思えるのは、結局のところ、他人から強いられたわけではなく、自分自身で選んだ生き方だからなのだろう。それに、その代償というわけでもないが、今まで私が過ごしてきた時間と、その結果手にした小さいけど居心地の良い、小高い丘の上にある小さなマンションの2ルームの部屋は、十分に満足のいくものだ。
 太陽が水平線の向こう側に姿を消し、街に帳が落ちる前、明かりが灯り始めた街を見下ろしながらベランダでワインを飲むのが、私の一日を締め括る儀式であり、至幸の時間になっている。
 そして事件は、正にそのベランダから始まった。
 あの日は、冬だというのにインディアン・サマーという言葉がぴったりくる、小春日和の一日だった。昼間が温かった分、私は12月にしては随分と薄手の格好で、ベランダに立ち、ワインを飲んでいた。最初の内は良かったのだが、日が暮れるとさすがに肌寒くなった。
 ワインがまだ少し残っていたので、いったん部屋に戻りカーディガンを羽織った。ついでにティッシュで鼻をかんだのだが、ゴミ箱が遠かったので、サイドテーブルに残したままベランダに戻った。再びワインに口をつけると、鼻が通ったせいか、さっきまでよりも美味しく感じられた。
 10分くらいで、ワインを飲み終えた。街に夜が訪れたことを確認して、その日の儀式が終了した。
 部屋に入ると、すぐにワイングラスを洗いキッチンの壁のフックにぶら下げた。長い一人暮らしから学んだことはたくさんある。その内の一つは、やるべきことは後回しにせずすぐ手を付けることで生活の質はずっと良くなるということ。そしてもう一つ、作業は段取りを考えて並行して行うと、効率的になるということだ。
 この時、ワイングラスを洗いながら考えた段取りはこうだ。
 少し身体が冷えたから早めのお風呂に入ろう。お風呂に入っている間に、溜まった洗濯物を洗濯する。今着ている服も一緒に洗濯すれば良いから、服を脱ぎながら洗濯機に向かう。さっきのティッシュがサイドテーブルの上に置いたままだから、それは回収してお風呂場の向かいのトイレに捨てて、そのまま用を足してから一緒に流す。そして時間を気にせずゆっくり、お風呂につかる。
 シンプルなプランだ。だけどプランというのはシンプルな方が良いものだし、どんなプランであれ、やるべきことがきちんと整理されているということが心地良かった。
 後は、誰の歌だかも思い出せない昔の曲を口ずさみながら、いちいち確認する必要もないプランを実行していくだけだった。
 服を脱ぐ。ティッシュを回収する。風呂場に向かう。脱衣所の洗濯機に脱いだばかりの服を放り込み、最後にトイレにティッシュを捨てる。捨てたつもりだった。
「あ!」
 思わず、普段は出さないような大きな声を出していた。
 目の前の現実が信じられなかった。
 洗濯機にティッシュを捨て、靴下をトイレに放り込んでしまっていた。
 言ってしまえば、これも、老化からくるセンサーの劣化の一例だ。物の属性を区分するセンサーが上手く動作しなかったに過ぎない。しかし、よりによって洗濯物とゴミを取り違えるか?しかも、なんで靴下だけ?
 次の瞬間、ぐっと身体に力が入るのを感じた。無意識の内に防御本能が作動し、これから自分に襲い掛かって来る、ショックの衝撃に備えていた。
 ・・・と、点を3つ並べるような空白の間が流れた。
 静かなままだった。私が覚悟した衝撃は襲ってこなかった。
 念のため、もうしばらくそのまま待機した。やはり、何も起こらなかった。地震の後に、薙ぎの海と向かい合っているような感覚だった。
 危機が去ったのか自信はなかった。ただ、いつまでもそのままでいるわけにもいかなかった。恐る恐る靴下をトイレから拾い上げて洗面所で軽く水洗いして、洗濯機に入れた。その反対に、洗濯機から取り出したティッシュはトイレに移動させた。そして用を足し、ティッシュごと水を流した。
 それでも、私の平穏な世界が乱されることはなかった。
 どうにも腑に落ちない感じを抱いたまま、洗濯機を回し、身体を洗ってから湯船につかった。ぼんやりと考えた。結論が出た。
 そうか、若かった頃の逆だ。センサーの感度が低くなった分、心の許容度が上がったんだ。
 昔の私のセンサーなら大きなショックを受けたり、自分自身に対して強い怒りを覚えてしまったであろう出来事も、今の私のセンサーでは、まあそんなこともあるかなくらいの感知しかされない。
 これからもっともっと私は老いぼれていく。若い頃の私が見たら、憐れみを覚えずにはいられないくらいに。だが、それに比例するように、私はそんな自分を受け入れていけるようになっていくのだろう。そもそも、残り時間がそんなに残されていないのだから、もうそんなに頑張らなくてもいいのだ。
 そして思った。
 歳を取るのも悪くない。
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