見つめていたい

文字数 3,981文字

 課の飲み会が終わり、若手社員が支払いをしている間にお手洗いに行った。ほろ酔い気分で鼻歌を口ずさみながら、最近では珍しく勢いよく用を足し、店の前に出ると誰もいなかった。もう一軒行こうと盛り上がっていたが、どうやら課長の私は忘れ去られてしまったようだった。
 腹は立たなかった。わざと私を仲間外れにしようというなら、そもそも私の前でそんな話はしなかっただろうし、そもそもうちのメンバーはそんな奴らじゃない。多分、幹事の安本あたりが代表して月曜日の朝私のデスクにやってきて、ペコペコと頭を下げるのだろう。その時に安本をどういじってやろうか考えると、むしろ笑えてきた。
 表通りは、春がそこまで来ているというのにまだ肌寒いくらいだった。ただそれも酒で火照った肌には心地よく、なんだか幸せな気分で駅に向かって歩き始めた。
 課の女性社員に出会ったのは、駅近くの交差点だった。
「和久井さん」
「あ、課長」
「みんなと二次会には行かなかったの?」
「はい。行きたかったんですけど、明日朝早くから友達とトレッキングに行く約束してて、お酒もあまり強くないので、寝坊しちゃったら困るなって思って。課長は、ゴルフですか?」
「いや、みんなに置いてかれただけ」
 いかにも悔しそうに言うと、ちゃんと冗談だと分かってますよということを表情で示しながら、ちょうど良い感じで笑い声を上げてくれた。やっぱり、こういうところが良いんだよなと思った。
 和久井さんは、今年の春に入社した新入社員だ。国立大学を出ているだけあって地頭がいいのだろう、教えたことに対する呑み込みが早く、すぐに仕事を一人でこなすようになった。頼りにしていた女性社員が昨年度末から産休に入って仕事の一部が回らなくなっていたから、すごく助かった。
 新入社員なのだから、それだけでも十分だったのだけれど、和久井さんの貢献は、それだけに留まらなかった。
 課内のコミュニケーションが劇的に改善したのだ。色んな種類の人が一緒に活動する職場では、とにかくコミュニケーションの問題を抱えるところが多い。ご多分に漏れず、うちの課でもそれは同様で、自他ともに認める平凡課長の私もずっと頭を痛めてきていた。
 そこに和久井さんがやってきた。和久井さんは、とにかく年代や性別を問わず、誰とでも分け隔てなく会話することができるという才能の持ち主だった。しかも、他の課員同士の関係がうまくいくように立ち回ってくれた。
 本人がどこまで意識して動いてくれているのかは分からないけれど、私には本当にそれがありがたかった。今日の飲み会を企画してくれたのも和久井さんだったし、飲み会が盛り上がって二次会に行こうなんて流れになったのも、和久井さんの影響が大きかったと思う。
 ちなみに、一人の女性としても和久井さんはすごく魅力的で、若手の独身男性社員の間では和久井さんを狙っている輩も多いという話だった。使い古された表現だが、私もあと二十歳若かったらその列に加わったことだろう。
 二次会に行った若い連中の中には、この機会に和久井さんとの距離を縮めようなんて不埒なことを考えていた奴もいたに違いない。そのことを考えると、なお気分が良くなった。
「どうかされましたか?」
 にやにや顔に気付いたのだろう、和久井さんの声で、現実に引き戻された。
「いや、楽しくお酒を飲んで、和久井さんみたいな若い女性と並んで歩けるなんて、いい夜だなと思って」
 軽い冗談のつもりだった。ところが、その言葉を聞いた和久井さんの足が止まった。
「課長!」
 思いつめたような真剣な表情で、和久さんがまっすぐにこっちを見てた。
 しまった、酒の勢いで軽口が過ぎたか。一気に酔いが醒めた。
「私、実は結構酔っぱらってて・・・、だからって言うわけじゃないんですけど、思い切って言わせてください」
 言われてみると、たしかに和久井さんの顔はいつもより赤らんでいるようだった。
 一瞬、そのことに気を取られて、不意を衝かれたというのはある。だがそれを差し引いたとしても、続いて和久井さんの口から発せられた言葉は、控えめに言って私の度肝を抜いた。
「私、私、ずっと課長のこと見てます!!」
「えっ・・・!!」
 和久井さんと私の間を沈黙が流れた。気まずい沈黙だった。いつもの和久井さんなら当然気が付いて、自分の発言を冗談か何かに変えて何もなかったのように話題を変えていただろう。ところが、この夜の和久井さんは一度切り出した自分の言葉の勢いを止められないようだった。というか、よく見たら目も充血して結構どころか泥酔してた。
「ああ、そう・・・、なんだ。全然気が付かなかったよ」
 とりあえず落ち着かせようと、意識的に抑えた口調で返した。
「はい・・・」
 私の冷静な対応で少し我に返ったのか、和久井さんは恥ずかしそうに下を向いた。顔はさっきよりも赤くなっていたが、これはお酒のせいだけではないだろう。
 いきなりの衝撃を乗り越えると、まんざらでもなかった。何かしようなんて下心を出すには、厳格な家庭内封建制度下での暮らしが長すぎたが、こんな若い女の子から好意を持たれて嫌な気がするわけがない。しかも、今は単身赴任の身だ。淡い不徳の香りが魅惑的に鼻を衝いた。
 また沈黙が流れた。でも、さっきのような気まずい沈黙じゃなかった。温かい沈黙だった。そして、今度はかみしめるように、ゆっくりと和久井さんが口を開いた。
「フェチなんです、私。それで課長がドストライクで、仕事に集中しないといけないなと分かっていても、つい、課長の方に目が行っちゃうんです」
 とどまることの知らない意外な展開の連続だった。
 自分にそんな魅力的なパーツがあるなんて思いもしなかった。どんな種類があるのかもよく分からなかったが、フェチ目線で自分をチェックする。
 メガネフェチ、か?眼鏡は、老眼鏡だけどたしかにこだわって少し値が張るやつを使ってる。後は、ヒゲフェチ?コロナの在宅勤務で伸ばした髭は、自分では気に入ってる。でも、どっちも弱い気がした。
 和久井さん本人が、心なしか言いにくそうにフェチって言っているくらいだから、もっとニッチなやつ、耳たぶの形とかそんなやつだろうか。
 まるで見当がつかなかった。
「聞いてもいいのかな・・・?何フェチかなんて」
 いやらしく聞こえないように切り出した。
「それって、私はもちろんですけど、課長も恥ずかしくないですか?」
 すぐには否定されなかった。あとは、いかにもそんなのは大したことじゃないですよ、自然な感じで背中を押せばよいだけだった。
「いや、今後の参考までにと思って」
 内心の昂ぶりを何とか抑えてスイッチを押すと、案の定、和久井さんはためらいながらも口を開いた。
「じゃあ、思い切って言いますね。私・・・、頭のてっぺんだけ髪の毛が薄い人に弱いんです。」
 何かが自分の中で崩れ去る音が聞こえた。
 え?え?何?私、頭のてっぺん禿げてるんですか!?
 たしかに、シャンプーするとき前より指の感触を直接感じるようになったし、散髪行っても「髪は梳きませんね」って言われるようになったし、若い時よりも頭全体の保温性能が落ちた感じはあるけど、それって、私の頭のてっぺんが禿げてるからなんですか!!?
「へえ、そうなんだ。それは、ちょっと珍しいフェチだね」
 心臓のバクバクが止まらなかった。それでもなんとか飲み込んで、きわめて普通な口調で返した。
「からかわないでください。何かきっかけがあったりするわけじゃないんですけど、男らしい感じがして。子供のころからずっと好きなんです」
 和久井さんが、頭頂部の禿げに惹かれるようになった理由なんてどうでも良かった。だが、良識ある一社会人として、ここで話を打ち切るわけにはいかなかった。とにかく、冷静になれ、冷静になれ、そして一秒でも早くこの会話を軟着陸させるんだ、そう自分自身に言い聞かせながら話を続けた。
「やっぱりそういうのって、興味がある人っていうのは、目が利くというか、見つけられるもんなんだね」
「それもあるかもしれませんが・・・」
 ・・・に嫌な良い感がした。頼むからここで終わってくれ、そう願った。だけどもちろん終わらなかった。
「でも、私だけじゃないですよ、気が付いてるの」
「え、他の人も気が付いてるってこと・・・?」
 もう冷静でなんていれるはずがなかった。
 たしかに和久井さんとの会話は継続していた。でも、もう和久井さんは見えていなかった。頭の中は、この間家の近くで通りかかった気がする、育毛クリニックの検索で一杯だった。
 たしか、先週の土曜日か日曜日のはずだった。窓にポスターが貼ってあって、ちらっと写真も見た。髪の毛が薄いことなんて、そんなの別に気にしなきゃいいのに、なんて思った先週末の自分を呪った。
「はい。女性社員はみんな。特に、雨の日は目立つから、私はハッピーで」
 女性社員はみんな?ハッピー?
 頭がおかしくなりそうだった。でも、聡明で誰よりも人の心をくみ取るのが上手なはずの和久井さんは、そんな私の気持ちに気が付くそぶりを全く見せず、話し続けた。
「先輩の中には、課長のその部分の様子で、明日の天気を予想してる人とかもいて」
 頼むから検索に集中させてくれ、そう叫びたい気持ちだった。
 このままでは私の中の私が大変なことになってしまう。何か一言言おう。そう思って、和久井さんに目をやった。今まで見たことのなかった女性の色気をたたえた、濡れた目と唇で和久井さんが私の方を見ていた。
 和久井さんが口を開くのと、私の検索がヒットしたのは同時だった。
「課長!今度、課長のお部屋にお邪魔していいですか!?」
 ありとあらゆる感情を飲み込んで、何とか声を絞り出した。
「ごめん。気持ちはうれしいけど、行かなきゃいけないところがあるんだ」
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