一人じゃない

文字数 3,917文字

 浩介との交際期間を通じて、デートの食事や映画、旅行のスケジュール等、大小に関わらず判断を求められる時に主導権を取ってきたのは、常に女性である私の方だ。そもそも、付き合おうと言ったのも私からだった。
 今どきのご時世とは言え、そういう関係は一般的ではないだろう。だけど、しっかり者で勝気な私と、おとなしくて優柔不断な浩介にとっては、それが一番しっくりくる関係なのだ。だから、私にそれを変えるつもりはない。いや、なかった。
 ところがここに来て、例外を認めるべきなんじゃないかという意見が、他ならぬ私自身の中から出てくるようになった。
 二人の人生にとって最大のイベントである結婚については、さすがに浩介が決断を下すべきなのではないかと、物心ついてから二十年弱も私の心の押し入れにしまい込まれていた、乙女心が主張を始めたのだ。
 どうして、乙女心なんて奴が今更になってしゃしゃり出てきたのかということだが、その点については私に心当たりがある。それはきっと、こちらの方は私に新たに加わった母性というやつの影響だ。
 そう今、私のお腹の中には新しい生命が宿っている。
                  ・ ・                
 浩介と最初に話をしたきっかけは、私が、所属する営業部の交際費を処理するための書類を経理部に持ち込んだことだった。その時、窓口に座っていたのが、浩介だったのだ。
 勘定科目やら、一人当たりの金額やら、一通りのチェックが終わり、無事書類は受領された。経理はそれが仕事だから仕方ないのだが、営業側の人間からすると、重箱の隅をつつかれるような指摘でそのまま書類を持ち帰らされることも良くあるので、まずはほっとした。
 で、挨拶をして、営業に戻ろうとして、浩介が私の方をじっと見ていることに気が付いた。
「何か?」
 やっぱり書類に不備がありました。そんな言葉を想定しながら、恐る恐る尋ねた私に浩介が返してきたのは意外な言葉だった。
「田畑さん、昔、バドミントンやってたんだよね?」
 うちの会社に、バドミントンサークルがあるのは知っていた。でも、食堂で何度か顔を見かけたことはあった、この経理の男性がバドミントンサークルのマネージャーをしているということは知らなかった。
 ちなみに、実はこの一言に私はムッとしていた。
 それは、私のバドミントンに対するかつての情熱が、「昔、バドミントンやってたんだよね」なんてついでのような一言で確認される程度の、浅くて軽いものではなかったからだ。そんなのって、ほんととんでもない話だった。中学生・高校生という青春時代を、私は文字通りバドミントンに捧げたのだ。
 結果も出した。高校では個人団体の両方でインターハイに出場して、チームのエースとして団体戦の5位入賞に貢献した。
 高校を卒業したあとも、そのまま実業団チームでバドミントンを続けるという選択肢もあった。だけど最終的に短大に進学してバドミントンを辞めたのは、何度も繰り返した肘の怪我のせいだった。
 バドミントンが本当に好きだった。だから、万全の身体で続けられないのなら、潔くラケットを置こう。そう決めたのだ。短大や会社のバドミントンサークルに入らなかったのは、競技レベルの選手でやってきたというプライドがあったからだ。
 そんな私の心の葛藤などもちろん知る由もなく、浩介はほぼ初対面の私に何の屈託もなく頭を下げた。
「バドミントンサークル入ってくれないかな?大会に出たいんだけど、シングルスの選手が足りないんだ」
 私の人生からは捨て去ったはずのバドミントンだった。おそらく、自分から戻ることはなかったに違いない。ところが、バドミントンの方から寄ってこられると、あっさりグラグラと心が揺らいだ。しかも、よく見ると、頼りなさそうではあったが、浩介の見た目は割と私のタイプだった。
 こうして私はバドミントンを再開することになったわけだが、結論から言えばその選択は大正解だった。
 まず、直接バドミントンとは関係ないが、社内のサークルに入ったことで人間関係が広がった。それは、会社生活を過ごしやすいものにしてくれただけでなく、仕事の面でも随分と助けになった。
 次に、バドミントンどころか、すっかり運動をしなくなっていた私にとって、身体を動かすという行為が単純に気持ち良かった。体調も良くなった。
 そして何より、私は思い知らされたのだ。私がバドミントンをどれだけ愛していたのかということを。コートの中で、相手と向かい合い、コートの中でシャトルを追い、相手のコートにシャトルを叩きこむのは、何事にも代えがたい快感だった。
 チーム・実戦ならではの緊張感も味わえた。
 もちろん高校時代のレベルとは比べ物にならなかったが、それでもサークルのみんなは私が想像していたよりもずっと真剣にバドミントンに向かい合っていた。そして、私が加入してそれまで弱点だったシングルスに柱ができたことで、大会でも良い成績を上げられるようになった。
 おまけに浩介という彼氏までついてきた。本当に、文句なしだった。
 すべてが順調だった。だが、というか、さらにというかは微妙なところだが、ここで小さからぬ状況の変化が生まれた。
 私の妊娠だ。
 まだ結婚していないので、それは予定通りの妊娠というわけではなかった。ただ、いつかは結婚しようと思っていたので、もし妊娠すれば結婚しようという暗黙の了解みたいなのがあった。あったと、少なくとも私は思っている。
 とは言え、妊娠検査薬の判定ラインにくっきりと一本線が出た瞬間はさすがに動揺した。
 両親、会社、色んなことが一気に頭に思い浮かんだ。だけど、少し落ち着きを取り戻すと、頭の中に残ったのは、ただ一つ。浩介と私二人、いや近い将来にはお腹の中の子供も含めて三人のことだけだった。
 そして、物理的に目覚めさせられた母性に刺激され出現した乙女心に、一刻も早く浩介にプロポーズさせろという督促を受ける日々が始まったというわけだ。
 だが、その作業は難航した。
 それは、浩介に私と結婚する意志があるかどうかとかいう問題ではなかった。浩介になかったのは、結婚するときには自分からプロポーズしなければいけないという根本的な認識だった。結婚は、しかるべきタイミングが来たら、私の方から指示がある。明らかに、それが浩介の結婚・そのプロセスとしてのプロポーズに対するスタンスだった。
 男としてそれはどうなんだという気持ちがある反面、今までそんな風に私が振舞ってきたというところに諸悪の根源があるので、そのことについてはあまり浩介を責めることはできなかった。
 ということで、さりげなくサインを送る作戦に出ることにした。
 私の部屋に浩介が遊びに来た時に、テレビの隣に結婚雑誌をこれ見よがしに放置して、らしくもないが、もじもじしてみた。そしたら、熱があるんじゃないかと心配された。パンダの嫁入りのニュース、良いな良いなと強い反応を示してみた。すると、ほんとパンダって可愛いよなと、強く同意されて終わった。
 鈍感な人なのだ。本当に優しくて、良い人なのだけれど。
 色んなスケジュール的なことを考えると、あまり時間に余裕はなかった。私はついに、最後の手段に訴えることにした。浩介に妊娠を伝えることで、向こうからプロポーズせざるを得ない状況に追い込むことにしたのだ。
 そこまでするのだったら、ほぼ私がプロポーズしてるのと一緒のような気もしたが、背に腹は代えられなかった。背に腹を変えられるのだって、お腹がぽっこり出るまでだ。
 そして、その日、二人で最初のデートの時に入った喫茶店で、浩介と私は向かい合っていた。席もその時と同じ窓際の席だった。窓から、通りを歩く人たちの姿が見えた。家族連れや、夫婦らしき人が通ると、自分の未来の姿と重なって目頭が熱くなった。
 普通に会話していたが、さすがに、浩介も私の様子にただならぬ気配を感じているようだった。
 機は熟した。
 そして、まさにその瞬間、まるで打ち合わせでもしていたかのように完璧なタイミングで、顔なじみの店員さんがオーダーを取りに来た。
「僕は、ブレンドをブラックで」
 浩介が注文した。
「私は、カフェオレをデカフェで」
 店員さんが、席から離れると、浩介が不思議そうな顔で私に尋ねた。
「加奈ちゃん、デカフェなんてコーヒーじゃないって言ってなかったっけ?」
 まんまと、チャンスボールを打ち上げてきた。
 浩介を素直で単純な男の子に育ててくれてありがとう、と未来の義母に心の中で感謝しながら、私は試合同様に冷静にスマッシュを相手コートに打ち込んだ。
「そうだけど、身体に気を付けないといけないから。だって、もう一人の身体じゃないし。あ、お手洗い行ってくるね」
 そして席を立つと、振り返ることなくお手洗いに向かった。
 浩介にも、気持ちの整理と心の準備が必要だと思ったのだ。
 浩介に時間を与えるために、そして私自身がきちんとした顔でプロポーズの瞬間を迎えられるように、お化粧直しにはたっぷりと時間をかけた。
 最後に深呼吸を三回繰り返して、それからお手洗いを出た。席に戻る間も、視線は床に落としたままで、浩介の顔は見なかった。スカートの裾を気にしながら、ゆっくりとソファに腰を下ろした。そして、顔を上げた。浩介の顔を正面から見据えた。
 今までに見たことないくらい、真剣な表情をした浩介がそこにいた。 
「加奈ちゃんさあ、」
 待ちかねていたように、浩介が切り出した。
 来る、ついに来る、ごくりと飲み込んだ唾の音が、私の中で響き渡った。
「ダブルスに転向するの?」
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