Dog Talk

文字数 3,746文字

 日曜日の朝は、読みかけの単行本をポケットに入れて家を出て、堂島川と土佐堀川に囲まれた中之島公園まで足を延ばす。途中、天満橋駅の地下のパン屋でカレーパンを買い、公園近くのコンビニで缶ビールを仕入れる。食材はそれぞれ二種類。カレーパンはステーキカレーパンと半熟卵カレーパン。缶ビールは一本がラガーで、もう一本は黒ビール。
 行先は、川に突き出した公園の先端のベンチだ。天気の良い朝は、そこでカレーパンとビールを口に、そして公園の賑わいを耳にしながら、ゆっくりと本を読む。ちなみに雨の日曜日の朝は、氷の入ってないウイスキーの水割りをあてに読書するのだが、このときも窓を開けて雨の音が聞こえるようにする。
 少し耳にノイズが入る方が読書に集中できるのは、子供の頃からだ。その音の大きさやリズムが難しくて、その時々で自分の読書スポットを探してきた。小学生の時は校庭の奥の一本杉の下、高校生の時はマクドナルド。大学生の頃は地下鉄のホームがお気に入りで、通学よりも読書のために定期が活躍したほどだった。
 勉強や仕事は静かな方が集中できるのに、なぜ読書だけはノイズがあった方が良いのか、答えは見つかっていないが、本に正面から向かい合うのが恥ずかしいのだろうというのが、俺なりの見解だ。
 中之島公園のノイズは多様だ。家族連れや友達同士で子供たちが遊ぶ声、大学のダンスサークルの音楽、季節によっては虫の声、楽器を練習している人もいる。ただ、人が集まる芝生からは少し離れたベンチに座っていると、それらの多様なノイズが一つの中之島公園の日曜日の朝のノイズになる。そして、それが今の俺の読書にはちょうど良い。
 その良く晴れた冬の日曜の朝も、俺は中之島公園のベンチで本を読んでいた。いつも通りの平和な光景、心地良いノイズ、そしてカレーパンとビール。読書の合間に、ここに足りない幸せの要素は何だろう、と自分に問いかけるくらい、完璧な日曜の朝だった。
 良く晴れた冬の朝らしく、冷気は顔を切るくらいだったが、登山用のウェアと貼るカイロに守られた俺の身体はホカホカで、むしろ澄んだ空気を吸い込んでフレッシュになった頭のおかげか、いつもよりも読書に没頭していた。
 だから、俺はそれの接近にまったく気が付いていなかった。
 だから、それの突然の登場は、俺に大きな衝撃を与えた。いや、より大きなというべきなのだろう。仮にもっと前から、それの存在に気が付いていたとしても、俺は決して小さくない衝撃を受けていたに違いないから。
 ふと空気の変化を感じたのだ。それで単行本から顔を上げた。すると、俺の目の前に巨大なプードルがいた。
 口に含んでいた黒ビールを思わず吹き出しそうになった。何とか踏みとどまることができたのは、プードルから少し離れた場所にいる飼い主の姿が目に入ったからだ。飼い主はリードの先を手に、こちらはノーマルなサイズの柴犬を連れた別の飼い主と何やら談笑していた。
 飼い主に気を遣うくらいの余裕は残されていたが、俺の心臓は八百メートルを全力疾走したくらいに強く速く打ち、うかつに口を開いたら飛び出してしまいそうだった。いったん目を閉じて、鼻で深く息を吸った。それを何度も繰り返し、心臓が飛び出しそうにないことを確認してから、今度は口で深呼吸した。
 まだ目を開けるのは怖かった。ただ、目を開けなくても一緒だった。目を閉じていても、その直前に目にした巨大なプードルのイメージが、鮮明過ぎるくらいに脳裏に刻み込まれていた。巨大な生物の体温も感じた。何より、動物臭がはっきりと俺の鼻を衝いた。
 それでもしばらくすると息は整ってきた。黒ビールを一口飲むと、もう一息、落ち着いた。
 そうこうしているうちに、以前に雑誌か新聞のコラムで読んだプードルについて書かれた記事のことを、思いだした。はっきりとした内容まで記憶になかったが、たしかプードルというのは元々狩猟犬で、ペットとして飼われるようになる中で品種改良が進み小型化されたというような記事だった。
 ということは、トイプードルとわざわざ頭に説明を足しているということもあるし、おそらく本来のプードルというものはもっと大柄のものだったのだろう。つまり、今俺の目の前に突然現れて、俺の心胆を震え上がらせた巨大なプードルは、実際には巨大なプードルではなく、普通のプードルだったということだ。
 普通のプードル。
 俺はその言葉を頭の中で噛みしめてから、ゆっくりと目を開けた。そこには、巨大なプードル改め、普通のサイズのプードルが、さっきまでと同じように飼い主から少し離れた場所で悠然とあたりを見回していた。
 二度目だったということもあったし、心の準備・整理もできていたから、さっきのように度肝を抜かれるということはなかった。ただそれでも、トイプードルをプードルと定義してきた俺の中では、その普通サイズのプードルには拭いきれない強烈な違和感があった。
 これが、普通のプードル・・・。
 そう、自分に言い聞かせるように、自分の中のデータを書き換えるように、プードルを眺めていた。なかなか簡単な作業じゃなかった。十秒くらいは経っていたと思う。川の先を見つめていたプードルが、突然俺の方に向き返った。
 プードルの目が、俺の目を真正面から捉えた。
 そう言えば、さっきの記事にはプードルはかわいらしいだけではなく、全ての犬種の中でも上位に入るくらい知能が高いと書かれていた。そして、そのことを証明するように、俺の目を覗き込むようなプードルの眼差しにははっきりとした知性が感じられた。
 今にもしゃべりそうだなと思った。実際に、その声が聞こえるような気さえした。
「おい、そこの男。お前は、儂の姿に違和感を感じている。違うか?
 お前の違和感が、我々プードル種に対する、根本的な誤解に起因するものであることを、儂に責めるつもりはない。お前は既に、プードルの原型が儂の側にあることを頭では理解している、頭の理解と感情の理解は、すぐには一致しないだろう。だがそれは時間の問題だ。やがて、お前の中のプードルに対する定義も訂正されるだろう。
 そもそもお前のプードル理解が正しかろうと、正しくなかろうと、そんなことはどうでも良い。それが仮に永遠に正されることがなかったとしても、そのことで儂の感情が何らの影響を受けることはない。いや、お前に限ったことではなく、他の誰が儂について誤解をしていようとも、儂には関係ない。
 何故ならば、儂が儂自身のことをきちんと理解しているからだ。それが全てだ。だから、お前が儂に感じている違和感など、儂にはどうでも良いというわけだ。
 だがな、男。儂には、許せぬことがある。それは、お前が他者に違和感を覚えながら、自分自身の生き様に違和感を感じていないという、その事実だ。
 お前が繰り返しそして消費する毎日は、果たしてお前が心の底から望んでいるものなのか?それが本来のお前の姿なのか?そこにお前は何の違和感も感じていない。あるいは、うすうす違和感を感じているのに、気付いていないふりをしている。
 他者のことを誤解したり、他者に噓をついたりすることは、ある意味仕方ないことなのかもしれない。儂だって飼い主にはしっぽを振る。だが、自分自身に嘘をつく、それを儂は黙って見過ごすことはできない。そういう輩を許すことができないのだ。いや、そういう輩を、見過ごす自分を許すことができないのだ」
 そのとき、プードルが不意に空を見上げた。
 つられて見上げた冬の高い空を、鳥の群れが自由気ままに飛び遊んでいた。そしてそんな鳥の群れを引き裂くように、重なり合ったさらに上空を、一機の旅客機が飛行機雲の線を引きながら、まっすぐに通り過ぎていた。
 視線を戻すと、プードルが、さっきと同じように真正面から俺を見ていた。プードルはさっきより優しい口調で、ただしまっすぐに俺に問いただした。
「お前は自由を愛する鳥なのか?それとも、目的に向かって直進する飛行機なのか?お前自身の真実はどっちだ?もう自分を騙すのは止めにしたらどうだ」
 いくら賢いとは言っても、所詮は犬だ。プードルが、俺に語り掛けてくるわけなんてない。百万歩譲って、プードルが言葉をしゃべれたとしても、俺の人生を揶揄する哲学者であるわけがない。全部、俺の想像だ。いや、妄想だ。
 二本目のビールを飲みほした後でも、それくらいの頭は働いた。俺はそんな自分の妄想を笑い飛ばそうとした。ところがプードルは、まるで俺のそんな思考を読み取って、そしてそれに挑むように、俺の目を見据えたまま、まっすぐに俺の方に近づいてきた。
 俺は、プードルから目をそらすことができなかった。鳥肌が立つようなぞわっとした感触が俺の身体の表面を覆い、そして俺の心の一番深いところにさざ波が立った。リードが目一杯伸びる距離までプードルが俺に近づいてきたときには、プードルと俺の心が通じ合っていることを俺は確信していた。
 俺の目から熱い涙がこぼれ落ちた、その次の瞬間だった。
 プードルは、俺の座っていたベンチの、俺が座っていたのとは逆の側の脚にマーキングをして、そしてそのまま悠然と飼い主のところに戻っていった。
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