停電の闇の底でインディアンドッグたちの遠吠えは響き渡る

文字数 2,973文字

 デリーは停電が多い。
 ただその分対策もしっかりできていて、大きな建物のほとんどには非常用電源が備え付けられている。私が単身赴任の居としているビジネスホテルも例外ではなく、電気が落ちるとすぐに非常用電源の作動を知らせるアラーム音とメッセージが聞こえて来て、ほどなく電気が回復する。
 最初はぎょっとしたものだが、ほぼ毎日そんなことが繰り返されると、夜中にアラーム音が聞こえてきても、そのまま気にせずに眠れるようになった。つくづく人間と言うのは、慣れる・忘れる生き物なのだと思う。
 だから、日本から持ってきた貴重な単行本を読んでいる最中に部屋の中が真っ暗になったその時も、特に焦ることもなく、視線を読みかけの文章の辺りに落としたままじっとしていた。
 当たり前のことだが、暗闇の中で目を開けていても何も見えない。目が乾くだけだ。日本より空気が乾燥しているインドではなおさらだ。しばらくして、視線はそのままで目を閉じた。景色は変わらなかったが落ち着いた。
 そんな風に、いつかは何とかなるだろうとソファに身体を預けままでいた。ところがその日は、いつまで待っても、アラームが聞こえてこなかった。
 それでも、どうしようよりも、何をしようの方が強かった。そして、嫁さんから来ていたLINEを思い出した。
 中学2年生の息子、慎吾が塾をさぼって困るという内容だった。困るという文面だったが、一言私の方からも言ってくれと言う意味だというのは分かっていた。分かっていたが、分かっていない振りをして、適当な返信でお茶を濁したきりになっていた。
 めんどくさかったというのは正直ある。だが、とても真面目な学生生活を送ったとは言えない私からしてみると、さぼりがちとは言え中学生で既に塾に通っている慎吾は偉いなと言う思いがあった。
 だから、このとき慎吾にコールしようと思い立ったのも、小言を言うというよりはたまには男同士の会話をしようと言う気持ちからだった。もちろん嫁さんに対するアピールもあったことは言うまでもない。
 慎吾に嫌がられることは分かってたので、気乗りはしなかった。ただ、こんなことでもなければ、連絡することもないだろう。
 自分の気が変わらない内にとスマホを取り上げると、自動的に電源が入り、画面の明かりがろうそくみたいな光の輪を放った。その輪の中に指を突っ込み、画面を操作して慎吾にコールした。
「何?塾の話だったら、分かってるから、」
 二三回目のコールで呼び出しに応えた慎吾は、すぐにスマホを切ろうとした。
「いや、そうじゃない。今、お父さんが住んでるホテルが停電でさ。やることもないから、たまには慎吾と話したいなって思って」
 過度に卑屈にならないよう、努めて明るくそう語り掛けた。
「ふうん、じゃあ、いいけど。短くね。俺も忙しいんだから。で、どんな話があるの?」
 いかにもめんどくさそうに、ただ、少しは話に付き合ってくれるようだった。
 と、ここで、話をする内容を考えていなかったことに気が付いた。しまったな、と思った瞬間、その日の昼間に撮った牛の写真のことを思い出した。
「ああ、そうそう。インドってさ、街中に動物が多いんだ。慎吾もテレビとかで見たことがあるかもしれないけど、牛とか山羊とか。インドの人にとって神聖な生き物だからって言うのもあるけど、特に牛は多くて、普通に道路で群れてたりして、それが渋滞の原因になってるなんてこともしょっちゅうなんだ」
「へえ、たしかに映像では見たことあったけど、ほんとにあるんだ」
 どんな少年にも冒険心はあるのだろう。慎吾の言葉には、少しだが見たことがない異国の地への興味のようなものが感じられた。
「あるある。しかも野良牛みたいなやつもいて、あたりはスラムみたいなところで、当然牧草地なんてあるわけもないのに、どうやって食事してるのか不思議だよ」
「野良牛、なんて言葉聞いたことないよ」
 そう言って、慎吾は笑った。スマホのビデオはオフになっていたが、久しぶりに慎吾の笑顔を見たような気がした。自分でも驚くほどに、それが嬉しかった。自然と話にも勢いが付いた。
「野良牛は日本にはいないけど、野良犬は日本にもいるだろう。でも、野良犬も日本の野良犬とは全然違う」
「どう違うの?」
「昼寝する。というか、太陽が上がってる間はずっと寝てる」
「ずっと?なんで?」
「基本的には暑いんだと思う。壁際とか軒下の細い影に、一列になって寝てるから」
「一列になって?って言うか、そんなにたくさんいるの?」
 慎吾は野良犬の話にも興味を持ったようだった。それで、また調子が出て来た。
「たくさんなんてもんじゃない。東京でスマホ見ながら歩いてる中学生より多い」
「それは、さすがに言いすぎでしょ」
「大袈裟じゃないんだ。ほんとにそれくらいいる。しかも、昼の間は死んだように寝ている野良犬たちが、夜になると一斉に起き上がって街中を徘徊し始めるんだ」
「え・・・、危なくないの?」
「危ないさ。夜のデリーの裏通りは野良犬の王国だ。野良犬たちは、自分の縄張りを見回って、縄張りを荒らすものがいたら躊躇なく襲い掛かり、命がけの争いを繰り広げる。さっき昼寝しているって言った野良犬の中には結構な割合で、戦いに敗れ去って永遠の眠りについた野良犬が含まれている。どうやって、それを見極めると思う?」
 ごくりとつばを飲み込む音が聞こえた。
「方法が、あるの・・・?」
「あるさ。ハエにたかられたときに、耳や尻尾で追い払うかどうかさ」
「うえ、ちょっとそれは、想像したくないな・・・」
 生意気なことを言っても、まだまだ子供だ。よし、このまま会話を続ければ、関係の修復はおろか、父親としての威厳の回復を図ることすらできそうな感じだった。チャンスを逃すことのないよう、間を空けず、私は言葉を続けた。
「それくらい、野良犬たちの縄張り争いは激しいんだ。毎晩、夜の間は、野良犬たちの威嚇と死闘と勝利の雄たけびで、ホテルの窓が震えるほどだ。特に今日みたいに停電で街が暗闇に沈んでいるこんな夜は、何かに急かされるみたいに争いの激しさが増す。そして人々は、日の出とともに、その凄惨な争いの結果を目の当たりにすることになる。ほら、聞こえるだろう、インディアンドッグたちの雄たけびが!!」
 まるでディズニーランドのアトラクションのスタッフのように、芝居じみた口調でそう言うと、私は実際に野良犬たちの鳴き声が聞こえてくるホテルの窓の方にスマホを向けた。そして、慎吾との会話の仕上げに入るべく、スマホを耳に戻した。
 その瞬間、怯えた、というよりも、さっきまでの興味がまるで感じられなくなった平坦な慎吾の声が聞こえて来た。
「なんか良く分からないけど、もう切るね。気持ち悪いし。塾は明日からちゃんと行くから」
 そして、私に言い繕う暇も与えず慎吾はコールを切った。
 画面が暗くなったスマホに、調子に乗り過ぎたせいで千載一遇のチャンスを逸してしまった事実を思い知らされ、私の胸の中を、後悔の念がこみあげて来た。でもその三秒後には、嫁さんのミッションを果たしたことに安堵のため息をついていた。
 つくづく人間と言うのは、自分の都合の良いことだけを見て生きていく動物なんだなと思った。
 ホテルの外では、インディアンドッグたちの争いが続いていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み