ミスタービーンの呪い

文字数 2,416文字

「高野さん、今日の夜空いていますか?もし良かったら、一杯どうです?」
 金曜日の昼過ぎに、デリー支店長の藤岡さんから声をかけられた。質問の形を取ってはいたが、金曜日の夜に他の予定があることも、断られることもまるで想定していない口調だった。実際、何の予定もなかったし、断るつもりもまるでなかったので、その場で19時に事務所を出て和食居酒屋に行くことが決まった。
 インドに来て、会社の人と飲む機会が増えた。色々な環境の変化や制約の出現で、日本ではそういう機会がめっきり減っていたので、その違いはより鮮明に感じられた。
 デリーで飲み会が多い理由の一つは、間違いなく家族帯同者が少ないということだ。ただ、それが唯一の理由ではない。飲んで発散したいストレスが多い。しかも、飲む以外のストレスの発散の選択肢が限られている。というか、他にない。少なくとも、私には思いつかない。
 それでいて、飲みながら何の話をするのかと言えば、インドでの生活やインド人の同僚に対する愚痴なのだ。
 飲み会が、ストレスの発散というよりもストレスの確認の場になることも多く、飲み終わったときに次の飲み会に向けたストレスがより蓄積されているようなこともしょっちゅうなのだから、地獄絵図のような循環型社会と言う他ない。
 その上、そんな文句を並べ立ててみても、グルガオン市内に数件ある和食居酒屋の暖簾をくぐるときには、毎回少し胸が弾むような感覚を覚えるのだから切ない。
「枝豆は、日本で食べるのと味、変わらないですよね」
 何十回繰り返しただろう、誰に対する何のメッセージか自分でもまるで分からないコメントを口にした後に、藤岡さんと乾杯して、その日の飲み会は始まった。
 駐在歴5年目、かつ今回が2度目のインド駐在になる藤岡さんは、ただ単に支店長だからというだけではなくて、デリー支店の主だ。インドに対する造詣も深く、この国で生活や仕事をしていく上での、とても参考になる話を聞かせてくれる。また、そもそも話が上手なので聞いていて飽きることがない。
 この日も、インドで年間約2,000人もの人が落雷で亡くなっている話や、ここ10年で野良牛(正確には捨て牛)が増えている話。その両方の社会的・宗教的背景と課題と言った、普通のメディアでは知ることが出来ない話を聞かせてくれた。
 すっかり満足して、何杯目かのビールに手を伸ばしかけて、ふと藤岡さんの表情が変わっているのに気が付いた。
「ところで、」
 そう切り出した藤岡さんの口調にもどこか改まったところがあった。
「はい」
 椅子の上で、姿勢を正しながら応えた。
「ミスタービーンって知ってますか?」
「あの、昔のイギリスのコメディですか?」
「ええ、そうです」
「中年のおじさんが、とぼけた表情で無茶苦茶なことをして騒動を引き起こすってやつですよね。大学の時にビデオを借りて、よく見ました」
「私、トイレに行くたびに、ミスタービーンのことを思い出すんです」
 ミスタービーンを演じていたローワン・アトキンソンの大きな鼻と太い眉、人を馬鹿にしたような目と口の特徴的なの表情、肘あて付きのジャケットに赤いネクタイという服装を思い出した。だけど、それが藤岡さんのトイレ事情とどんな関連があるのか、さっぱり分からなかった。
 怪訝な表情を浮かべていたと思うが、藤岡さんはまるでこちらの様子に気を配る様子も見せず、そのまま話を続けた。
「正確には、ミスタービーンというよりも、ミスタービーンの一場面ですね。こういうシーンなんです。ある日、外出先で、ミスタービーンが車を駐車するんですけど、神経質なミスタービーンは車が盗まれるんじゃないかと心配でたまらない。
 それで、ドアに鍵がかかっているか何度も何度も確認するんです。しかも、それだけじゃあ十分じゃないと、南京錠みたい奴まで持ち出して何重にも何重にも施錠する。ところが最後の最後に、車の後ろの窓を外から手で開けると、そこから中に鍵を放り込んでしまうんです」
 そのエピソードを見た記憶はなかったが、イメージできた。イメージだけでも、笑えた。ただ、藤岡さんが何を言いたいのかは、まるでぴんと来なかった。
「面白いですね。でも、それが?」
 藤岡さんは、遠くを見るような目で、なぜか感慨深げに言った。
「トイレで用を足した後、手を洗うじゃないですか。手を洗うんだけど、水の衛生状態が心配だから、石鹸も使う。日本じゃないようなすごい匂いの、消毒効果はいかにも抜群そうな、でも逆に肌には絶対良くなさそうな石鹸です。それでも心配だから、その石鹼を使って念入りに、何度も何度も手を洗う。でも、最後に水で手を洗い流す。最後に手に残るのは水です。衛生状態が心配な水なんです」
「たしかに・・・」
 そんなこと考えたこともなかった。だけど言われてみれば、その通りだった。
 藤岡さんの言葉について、もう少し考えてみようとした。ところが、藤岡さんの話はまだ終わっていなかった。
 藤岡さんの口から、さらに意外な言葉が飛び出した。
「私それって、ミスタービーンの呪いなんじゃないかと思うんです」
「ミスタービーンの、呪い・・・?」
 呪いと言う言葉を、人生で初めて口にした。その言葉は、言葉自身に力があり、自然と小声になった。
「事情が、違うことは分かっています。ミスタービーンは自分の努力を自分自身でぶち壊している。でも私たちの場合は、どんなに努力をしても、不条理にもその努力が無意味なものになってしまうという話です。だけど、何故だか手を洗うたびにミスタービーンのこのシーンのことを思い出すんです。お前も、とどのつまりは、ミスタービーンと同じじゃないかと嘲笑われているような、そんな気分になるんです」
「それが・・・、」
「はい、それがミスタービーンの呪いです」 
 それはミスタービーンの呪いではなくて、インドの呪いなんじゃないかと思った。思ったけど、何も言わなかった。
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