男か女かオリーブか

文字数 2,859文字

「うわー、このパン、焼き立てであったかくてうめえっ!しかも何、この透明のソースも最高なんだけど!」
「パンじゃありません、フォカッチャです。それに何ですかソースって、それオリーブオイルですよ」
 恵比寿のイタリアンにはまるで似つかわしくない後輩たちのコントのようなやり取りを見ながら、日本って平和だなと、俺はそのありがたさを噛みしめた。
 課長から、若手のガス抜きをやって来てくれと頼まれて設定した飲み会だった。5年目の村岡と新入女子社員の橘。予約してくれたのは橘だった。
 来る前にネットで調べたらいかにも若い女の子が好みそうな洒落た店で、橘もこういう店に来るんだなと感心したが、目の前の橘のテンションの高さを見る限り、かなり背伸びしたチョイスだったようだった。
「おーこれが、オリーブオイルか!!」
 村岡は、橘の冷めたコメントにもお構いなしで、口の周りにべったりオリーブオイルを塗りたくったまま、フォカッチャにかぶりついていた。で、かぶりつきながら感想を述べるものだから、口の中からフォカッチャの残骸がコンニチハしていた。
 この上なく見苦しかった。だけどその一方で行儀やマナーとは別次元の話として、美味しそうに食べている人を見るのは純粋に嬉しいものだ。店を予約した人間としてのプレッシャーもあったのだろうか、気が付けば橘の表情も入店時に比べて穏やかになっていた。
 村岡の無作法が場の雰囲気を和らげる結果になったということだ。店の雰囲気を損なう結果になっていなかったかという点については、そうであってほしくないと願うと同時に、念のため関係者の方には一言お詫びを申し上げておきたい。
「そう言えば、笹井さん、橘、知ってましたか。生物の中で染色体の数が46本なのって人間とオリーブだけなんですよ」
 村岡が突然、俺と橘の顔を見回して自慢げな表情で蘊蓄を披露したのは、フォカッチャを食べ終えたあと、ナプキンで口を拭ったタイミングだった。
「えーっ、ほんとですか!?ちょっと、それってすごく無いですか!!」
「へえ、そうなんだ。知らなかった」。
「でしょ!だからこんなにオリーブオイルって美味しいんですよ!」
 俺たちの反応がお気に召したのか、村岡の鼻の穴が、まるで一対の洞窟のように膨らんだ。
「だからとか言って、先輩、さっきオリーブオイルのことソースって言ってたじゃないですか」
 流石に鼻についたのか、橘が蒸し返した。
「うるさい!知識があるのと食べたことがあるのは、全く別の話なんだから、別にそんなの良いだろ!!」
 ムキになったところを見ると、痛いところをつかれたようだった。
「おいおい、喧嘩しないで、食事を楽しめよ。ところで、オリーブオイルは美味しいだけじゃなくて身体にも良いらしいぞ。あんまり印象無いかもしれないけど、イタリアは日本に次ぐくらいの長寿国で、その理由は赤ワインとオリーブオイルだって言われてるくらいだから」
 俺が間に入ると、二人はあっさりと休戦し、フォカッチャと一緒に運ばれて来ていた前菜について、あーでもないこーでもないと、話を始めた。まあ、元々本気で言い合っていたというより、じゃれ合っていただけだ。
 そんな二人を横目に、やれやれと白ワインのグラスを傾ける俺のふるまいは、自分でもいうのも何だが、周りからは大人の趣に溢れたそれ態度に映ったに違いなかった。それは気分が良かった。
 それは気分が良かったから、仲裁の末尾にさりげなく差し込んだ俺の蘊蓄に対する反応が、さっきの村岡のそれとは違って全くの皆無だったことは我慢した。
 フォカッチャも前菜も美味しかったが、その後の手長海老のクリームパスタもポークの薪焼きグリルも絶品だった。会話も盛り上がって、ボトルで頼んだ赤ワインも二本目がほとんど空になっていた。
 「ちょっと良いですか・・・」
 ふと会話が途切れた瞬間に割り込むように、橘が口を開いた。橘には珍しく申し訳なさそうな口調だった。
「良いよ。何?」
「さっきの村岡さんのオリーブオイルの話。知ったかしてちゃかしたんですけど、実は良く分かってなくて。染色体の数が一緒だったら、どうなんですか?って言うか、染色体ってそもそも何でしたっけ?」
 橘の顔が赤かったのはお酒のせいだけじゃなく、そんな一般常識的なことも知らない自分が恥ずかしかったからに違いない。てへ、とこそ言わなかったが、照れ隠しの感じがにじみ出ていた。
 そんな橘の発言に、俺と村岡は沈黙した。橘からすれば、俺たちが呆れ返ったように見えたかもしれない。だが、実際は違った。
 俺は言葉を失ったわけじゃなかった。俺は橘の問いに答える言葉を持ちあわせていなかった。ただ単に、俺も染色体の数が同じと言うのがどういうことか、そもそも染色体が何なのか知らなかったのだ。
 俺の斜め前に座った村岡の青ざめた表情を見れば、状況が同じことは一目瞭然だった。
「・・・。」
「・・・。」
 賑やかな店内で、俺たちのテーブルだけが、エアポケットに落ち込んだような沈黙に包まれていた。
 あと一秒でも長くその沈黙が続けば、さすがの橘も事情を察したことだろう。村岡はともかく、キャリア的にもキャラ的にも、それは俺には正直きつかった。
 だからだ。村岡が口を開いたのは、自分を守るためと言うよりも、俺を守るためだったのだ。決して切れ者ではないけれど、村岡はそういう可愛いところがある男なのだ。
「そりゃ、アレだよアレ。なんて言ったって染色体の数が同じなんだから、あり得るって話だろ」
「あり得るって、何がですか?」
 重ねられた橘の言葉にも表情にも、村岡を揶揄っているような感じはまるでなかった。橘は純粋に教えを乞うていた。
 だからこそ村岡は追い込まれた。追い込まれて、一度は男気を見せようとはしたものの、やっぱりどうしようもなくって、俺にすがるような視線を送ってきた。必死の表情だった。村岡は確かに救いを求めていた。
 だが俺は、そんな村岡のシグナルにはまるで気が付いていないように、そのときテーブルの横を通り過ぎた若いウエートレスの品定めをしている振りをした。
 俺は一生忘れることがないだろう。あの時の村岡の絶望した表情を。
 沈没した船から投げ出され、そして自分には救命の浮き輪が投げられないことを知った村岡は、溺れながら空気を求めて必死で水面から顔を出して息をしようとするように、言葉を絞り出した。
「それはつまり、お腹の中の赤ん坊が、男の子か女の子かオリーブか、みたいなことだよ!!」
「ええっ!!?」
「まれにだぞ!、まれに!!」
 深い海の底に沈んでいく村岡を見送りながら、お前の犠牲を無駄にすることはないと俺は心に誓い、献杯のメルローを飲み干した。
 さっきまでフルボディの魅力を存分に発揮していた赤ワインは、まるで味がせず、ただ後輩を見殺しにしたという後味の悪さと、結局のところ染色体の数が同じって言うのはどういうことなんだろうというモヤモヤだけが残った。
 恵比寿のイタリアンなんて、来なければ良かったと思った。
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