ワタナベ考

文字数 2,138文字

「横山先生、ちょっと良いかな」
 教頭の松川先生に声をかけられたのは、夏休み明けのテストの採点をしていた時だった。
 最初は俺に話しかけてきているんだと気が付かなかった。ただ顔を上げると、まっすぐに俺の方を見ながら、松川先生が目の前に立っていた。俺に話なんて珍しいなと思って職員室を見回した。他の先生は誰もいなかった。ああそういうことかと納得した。
「まあ、そこに腰掛けて。こう暑いと喉も乾くだろう」
 松川先生と来客スペースに移動して、勧められるままに来客用のソファに腰を下ろすと、冷たい麦茶が出てきた。ここまで気を使われるなんて、実は内緒の話でもあったのかと、座り方を改めた。
「いやあ、大した話じゃないんだけど気になっちゃてさあ。こういうのは若い人に聞いた方が良いというか早いかなと思って」
「はあ。それで?」
 ハンカチで禿げ上がったおでこの汗を拭いながら、笑いかけてくる松川先生の話の行く先はまるで見えて来なかったけれど、曖昧に先を促すしかなかった。
「ワタナベのことなんだよ」
「渡辺って、渡辺敬浩のことですか?」
 担任するクラスのヒョロリと背の高い、渡辺の顔を思い浮かべながら問い返したが、松川先生はすぐに顔の前で両手を交差させて、そのイメージをかき消した。
「他の、渡辺ですか?」
「いやいや、そうじゃない。ワタナベ全般の話」
「渡辺全般・・・?」
「そう、特定のどこかのワタナベじゃなくて、全てのワタナベの話だよ」
 全く何が言いたいのか分からなかった。それが表情に出るのを抑えられないくらい分からなかった。そんな俺を見て、もどかしげに松川先生は言葉を次いだ。
「ほら、ワタナベが増えただろ?」
「生徒の数がですか?」
 特にそんな印象はなかった。
「違うよ、名前の漢字のバリエーションだよ、バリエーション。ワタの方じゃなくて、ナベの方」
「ワタナベのナベの漢字?」
「そう。渡辺とか渡部とか渡邉とか渡邊とかさ。色んなワタナベがあるだろう」
 そして松川先生は、それぞれのナベの部首やら特徴を説明した。
「ああ、言われてみれば、色んなワタナベがありますね」
「あれなんだけどさ、昔は渡辺一択だったと思うんだよ。あっても渡部の二択までで。ところが最近、渡邉と渡邊が増えている気がするんだ」
 考えたこともなかったが、松川先生の言葉をキーワードに記憶の中を検索してみた。
「たしかに、子供の頃のワタナベはみんな渡辺だった気がしますね」
「そうだろ。いつの間にか新種が蔓延って、しかもそれが渡邉と渡邊なんて、そっくりで細かい文字だって言うんじゃ、私の老眼じゃ区別がつかないよ」
 そう言って、顔をしかめた。
「という、ご不満ですか?」
「ああ、話がずれたな。いや、そうじゃなくて、横山先生と話がしたいのは、ワタナベのバリエーションが増えた理由だよ」
「理由?」
「苗字なんていうのは代々受け継がれるもんだ。ある日突然渡辺が渡邉に変わるなんてことはありえないんだ。ところが、明らかに渡邉は増殖している」
「なるほど。言われてみればそうですね」
「そうだろ!絶対なんかあるだろ!」
 最初の反動もあってか、ようやく意を得たと言わんばかりに松川先生は身を乗り出してきた。訳の分からない話で教頭の機嫌を損ねるのは、災難以外の何物でもないので、ちょっとほっとした。ただ、まだ話の着地点は見えなかった。
「松川先生のおっしゃられたいことは分かりました。それで、私にお聞きになられたいことと言うのは?」
「それなんだけどさ。教頭の立場でこんなことを言うのが良くないのは分かってるんだが。時代の機微というか、そういうのが色々と昔と変わって来てるだろ。それがぶっちゃけ良く分からないんだよ。
 例えば、最近、何かあればすぐに何ハラだアレハラだって、騒ぎ立てるじゃないか。いや大事なのは分かるし、昔の方が良かったなんて言うつもりはないよ。ないが、そこばかり気にしてたら、生徒たちとぶつかり合うどころか、向き合うことすらできなくなってしまうじゃないか。
 それが生徒のためになるのか!?」
 私が知る松川先生からすれば、意外なほど熱い言葉だった。
 以前飲み会の時に、隣に座った生物の若林先生が言っていた、松川先生が以前は鬼松と呼ばれるコワモテ教師で、それが理由で問題を起こして好調になる目が消えたという話も本当かもしれないなと思った。
 ついでに、根も葉もないうわさをまき散らす人だなと呆れていた若林先生に心の中で、ごめんねと謝った。
「・・・それで?」
 松川先生の新しい一面には興味があったが、早く採点を終わらせて家に帰って、ビールを飲みながらベイスターズの試合が見たかったので、先を促した。
「うん。それでだ。それで、まだ若くて時代のトレンドにも精通して、一方では若いがしっかりもしている。そんな口の固そうな横山先生に教えて欲しんだが」
 声を落としながら、松川先生はぐっと俺の方に身を乗り出してきた。昔、親父が使っていたのと似たオーデコロンの匂いがした。
「これもあれ?ダイバーシティってやつ?」
 耳元で囁かれるような感触のことを気にしたくなくて、さっきからずっと気になっていた別のことに意識的に俺は思いを馳せた。
「そんなことより、俺、横山じゃなくて横川なんだけどな」
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