焼き豆腐

文字数 3,681文字

 インドは暑い。
 そんなの知ってるよと思われるかもしれない。私もインドに来るまでは、それくらいは知っていると思っていた。でも実際にインドに赴任してきてインドの暑さを身をもって体験して、それが勘違いだったと分かった。知ったかぶっていたと、思い知らされた。
 その衝撃は大きく、これ以外にも気が付いていないだけで同じように知っているつもりのままにしていることがあるんじゃないかと、50年の人生を振り返ったほどだった。そのことを嫁さんに確認しようかとも思った。でもそれは、蛇足になる気配が濃厚だったのであきらめた。
 インドの暑さを、本当の意味で初めて理解した日のことは良く覚えている。
 5月中旬の週末、私は少し足を延ばして、ショッピングモールに足を運んだ。目的は、この屋外型ショッピングモールにあるビアレストランで飲める、自家醸造IPAビールだった。
 インドへの輸送に耐えうるよう防腐剤の役割を果たすホップを通常のビール以上に使用することで、香りと苦みが非常に強くなったIPA。その由来通りインディアペールエールと名付けられたビールを飲むならどこでしょう?そりゃインドでしょう!!
 ということで、赴任後に訪れるビアレストラン、訪れるビアレストランでIPAを飲んできたのだけれど、このモールのIPAが私の一番のお気に入りだった。ただ残念なことに、会社とアパートを結ぶ導線からレストランが外れているため、そうしょっちゅう通うというわけにはいかなかった。
 その日は一か月ぶりの訪問で、朝からワクワクしていた。気温が50度近くまで上がるというのは、天気予報で見ていた。ただ、それまでに体験したことのなかった気温が私の上機嫌に水を差すことはなかった。
 暑い暑いと言っても、外を歩き回るわけじゃない。ただ、ビールを飲むだけだ。というか、ビールを飲むなら、何なら暑すぎるくらいの方が良い。50度は初めてだが、45度くらいはこれまでにも体験済みだ。5度くらいの差なんて大したことないだろう。25度と30度だって大して変わらないし。そもそも、インドの人たちはみんな、普通に生活してるじゃないか。
 そんな、浮かれ気分よりに意気揚々と、ウーバーでショッピングモールに到着して、車を降りた。
 瞬殺だった。ほんと一瞬で鼻っ柱をへし折られた。自分の浅はかさの度合いとは割が合わないくらいのお仕置きを受けた。
 熱風が吹き荒れていた。大げさでもなんでもなく、それは巨大なドライヤーの前に立たされているような感覚だった。
 タイル張りの床からの強烈な太陽の反射と、周囲に建ち並ぶビルを抜ける強風が、その極限の状況を作り上げていた。立っているのがやっとだった。というか、日本人である私には生きているのがやっとだった。そこで気が付いた。
 いつもは、大勢のお客で賑わっているショッピングモールに、見渡す限り、人っ子一人の気配もなかった。まるでゴーストタウンのようだった。そもそも、インドの人たちも普通には生活してなかった。
 インドは寒い。
 冷房が効きすぎているのだ。インドに限らず、アジア全般で言えることだけれど、快適やホスピタリティの域をはるかに超えて効きすぎている。
 これまた私が日本人だからなのかと言えば、インド人の同僚たちも事務所の座席に軽く羽織れる上着をかけておいて日々活用しているのだから、やはり寒いのだ。地球環境に優しくないしコストもかかるし、それなら設定温度を上げれば良いのに、と思う。
 思うのだけれど、そんなことをインド人に言ったら、反論をまくしたてられるのは目に見えている。しかも、本人すらまるでそんな風には思っていない詭弁を、ただ反論したいという理由だけで延々とまくし立てられるのだ。うんざりだ。うんざりには全く不自由していない。売るほどある。
 というわけで、口をつぐむ代わりに重ね着を2枚準備して寒さを乗り切っている。
 インドは暑くて寒い。
 これがきついのだ。暑いだけならまだましだ。寒いだけならまだなんとかなる。だけど、暑くて寒いとそうはいかない。毎日、ヒートショックをくらっているのだから、身体にだって良いわけがない。
 その日も、仕事をしていて、寒さに我慢が出来なくなったので、カーディガンの上にジャケットを羽織った。羽織りかけて、呟いた。
「ほんと、焼き豆腐だな」
「焼き豆腐って、居酒屋の新しいメニューですか?」
 隣のデスクでパソコンとにらめっこしていたはずのシステムエンジニアの益田くんが、いつの間にか私の方に顔を向けていた。
「ああ、ごめん。邪魔したね。居酒屋のメニューじゃない。ほら、インドって外は暑くって、中は寒いくらいに冷房が効いてるだろ。そのことに関する、まあ言ってみれば感想だよ、感想」
「インドの外が暑くて、中が寒いは分かりますけど、その感想が焼き豆腐、ですか・・・?」
 最初は適当にごまかそうとした。したのだけれど、システムエンジニアらしく些細なことに引っかかる益田くんからは、それくらいのことで引き下がる気配がまるで感じられなかった。仕方なく、言葉を継ぎ足した。
「そういう落語があるんだよ」
「ああ、また落語ですか。どんな落語なんです?」
 説明を求めて来た益田くんの表情には一点の曇りもなかった。仕事が忙しかったわけでも、益田くんが嫌いなわけでもないけれど、私は躊躇した。
 落語の内容を説明するのは簡単じゃないし、興ざめだ。だけど、私が躊躇した理由はそこじゃなかった。以前にも同じような場面で益田くんに落語の内容を説明したことがあった。その時にまるでその落語の面白みが益田くんに伝わらなかったのだ。
 それも、ちょっとニュアンスがというレベルじゃなかった。 あまりに見事に伝わらなかったので、自分のコミュニケーションに問題があるのではとトラウマになりかけたほどだ。というか、システムエンジニアには落語の面白さは分からないという偏見になった。
 というわけで適当にごまかそうとした。
 それなのに、結局、益田くんがまた落語の説明をしろと迫ってきていた。お断りしたかった。益田くんは20歳以上歳が離れた後輩だ。断ったとしても、問題はないはずだった。
 だけど、益田くんはシステムエンジニアらしい純粋な好奇心むき出しの期待した表情を浮かべ、私の説明を待っていた。しばらく気が付かないふりをしてみた。それでも、益田くんはシステムエンジニアらしい忍耐強さでポーズを維持し続けた。
 結局負けた。
 半ばやけくそ気味に、私はいつもより早口で説明を始めた。
「しっかり者だが気が強い女房と、頼りない亭主の夫婦がいる。ある日、女房が亭主に約豆腐を買ってきてくれと使いを頼む。
 亭主は家を出るんだけど、店に行く途中で道草を食っている内に何を買うのか忘れてしまう。とりあえず適当なものを買って家に帰る。女房の表情で自分が頼まれたのと違うものを買って帰ったんだと気が付く。慌てて、買い直しに行く。また間違えて帰る。
 そんなことを繰り返している内に、怒りが頂点に達し、女房は亭主に灸を据える」
「やいと?」
「お灸だよ、お灸」
「ああ、おばあちゃんがよくやっていたやつですね」
「そうそう、そのお灸。で、お灸をすえられた亭主が熱い熱いと悲鳴を上げる。すると女房は、熱いんだったら涼しくしてやると井戸のところまで亭主を引きずって行って冷や水を浴びせる。今度は亭主が寒い寒いと悲鳴を上げる。寒いんだったら温めてやるとまたお灸を据える。熱いと悲鳴を上げる。
 と、そんな風に熱いと寒いを繰り返している内に、亭主は、ああ買い物は焼き豆腐だったって思いだすっていうネタだ」
「ここで焼き豆腐?」
 説明は終了した。でも、もちろんそれでミッションがそれで完了したわけじゃなかった。益田くんは、明らかに合点がいっていなかった。
 諦めても良かった。半分諦めた。それでも、もう半分が諦めていなかった。自分でも不思議だった。そして気が付いた。ああ、2人の子供を立派に育て上げた父親としての経験がそうさせているんだと。
 次の瞬間、子供は立派じゃないし、あなたは何もやっていないという、嫁さんの声が聞こえた。ような気がした。
 まあどうでも良いや、ここまで来たら、毒ごと皿まで食べても一緒だ、最終的にはそう開き直った。
「ほら、焼き豆腐って、煮て作った豆腐を冷やして固めて、それをまた焼くだろ。つまり熱いと冷たいが繰り返されると。その過程と女房のお仕置きが似ていて、焼き豆腐を思い出しってことだ」
 ご法度と言って良い、落語のオチの説明だった。
 来るところまで来てしまったという罪悪感と、それでもその説明が通じたのかどうかという不安が入り混ざった複雑な感情のまま、息を飲んで益田くんの反応を待った。
「ああ、」
 微妙な間をおいて、益田くんの顔に納得の表情が浮かんだ。
 私の胸の奥から、感動にも近い安堵の気持ちが湧き上がってきた。
 きちんと言葉を尽くしさえすれば、人間同士やはり分かり合えるんだ。
「つまり、ツンデレみたいなことですね?」
「いや、全然違う」 
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