世界の真理

文字数 2,102文字

 どうにも話の通じない相手と言うのは誰にでもいるだろう。私にとっては、同期の川村がそうだ。
 別に仲が悪いわけじゃない。入社して初めての配属先が同じで、それから三十年近く同じようなキャリアを歩んできた川村とは苦楽を共にしてきた。お互いに対するリスペクトもあるし、共通の趣味のゴルフも年に何度かは一緒にラウンドする。むしろ仲が良いと言って良いくらいだ。
 ただ話が通じない。
 話の内容が理解してもらえないというのでもない。起承転結なら起承転、三段論法なら一段二段までは、滞りなく会話が進むのだ。それが最後の結論になると話がかみ合わなくなる。
 例えばこんなことがあった。
 川村のチームと共同で東南アジア向けに推進していた案件で、現地のパートナー企業からの支払いが遅延しがちになり、確認と交渉のため私のチームの若手社員が現地に飛んだ。そこで先方と会議した結果のレポートを見ながら会話していた時のことだ。
「それじゃあ、向こうは支払いが遅れがちになっている事実を認めたわけだな」
 川村が言った。
「ああ、謝罪してきたそうだ。うちと進めているのとは別の案件でトラブルがあって、一時的に資金繰りが悪化したらしい」
「それで今後は?」
「そのトラブルは解決して、来月以降は期日通りの支払いができる」
「裏は取れてるのか?」
「もちろん。銀行のギャランティーも取った」
「そうか、じゃあ、」
 川村はまだ話をしている途中だったが、私は既にその続きを耳にしたつもりで席を立ちかけていた。が、
「このプロジェクトはいったんホールドだな」
 私にとっては想定外の川村の言葉に、私の膝は、まるでコントみたいに見事にかくんと折れた。
 こんなこともあった。
 その日はたまたま川村と事務所を出るタイミングが一緒になり、軽く食事をして帰ろうということになった。最近の日本の夏らしく、信じられないくらいに蒸し暑い日だった。とにかく一秒でも早く店に入って、冷えたビールを飲み干したかった。
「どの店にする?」
 自分でも気が急いているのが分かる早口で私が尋ねた。
「こう暑いと、食べるものも選択肢が限られるな」
 いかにもうんざりした表情で川村が応えた。
「たしかに限られる。なんか、さっぱりしたものが良いな」
「たしかにそうだな。さっぱりとしたものか、そうだな例えば・・・」
 蕎麦か寿司か、いずれにしろ和食系だろうと私は信じて疑っていなかった。口の中は既に、醤油の風味で満たされていたくらいだ。が、
「カレーはどうだ」
 存在しない足元の石につまずいてこけそうになった。
 一事が万事こうで、こんな例はほんとに枚挙に暇がないほどなのだ。
 勘違いして欲しくないのだが、私は何も川村の考えを否定しているわけじゃない。個々人がそれぞれ別の意見を持つのは当然のことだ。
 川村は頭が切れる男なので、私の思考のステップを超えて発想している部分もあるのだろうと思う。実際、東南アジアの案件は保留して正解だったし、カレーは美味しかった。
 ただ、話が通じない感が半端でなくあるのだ。心の底で分かり合えていない気がするのだ。五十代になって数少ない友人と呼べる存在とそんな感じになるのは、やはり寂しい。
 この世の中に万人にとっての真理のようなものがあれば、川村とも分かり合えるのかもしれないが、そんなものがあるはずもない。
 だからその日、酒を飲みながら川村が私にその質問を投げかけてきたとき、私は、会話を続けることに、あまり気乗りがしなかった。どうせ私が回答して、そのまま会話が最後までいったとしても、私の心に残るのはもやもやした感じだけだろう。そんな風に、冷めた感じで考えていた。
 その質問自体も変わっていた。
「なあ、お前さ、微妙な気分になったことってあるか?」
「なんだよ、微妙って」
「微妙だよ微妙、泣き笑いじゃないけど、二つの相反する感情のどちらなのかがはっきりないみたいな、そんな気分になったことがあるかってことだ」
 そもそも気乗りがしていなかった上に、すぐには答えが思いつかなかった。
 だが、いかにも川村は私の答えを聞きたがっていた。そのどこかわくわくしたような表情は新入社員だった三十年前と何も変わってなかった。ただ、当たり前だが三十年分老けていた。
 お互い歳を取ったなと思った。そして思いついた。
「あった」
「おお、あったか、聞かせろよ」
「くだらないぞ」
「どうせ酒の席の雑談だ。むしろくだらない方が良いくらいだ」
 川村は嬉しそうに私に先を促した。
「じゃあ言うけど、トイレの個室の方に貼っているときなんかにさ、暇だから鼻毛を抜くことがあるんだ」
「うん、それで?」
「いや、それでさ、抜いた鼻毛を見てそれが真っ白な時があるんだよ。そんな時さ、歳を取ったなって言う寂しさと、なんかくじに当たったみたいな嬉しさの両方の感情がこみあげて来て、それで、それでなんか微妙な気分になる」
 川村には珍しく、すぐには反応しなかった。私の顔を正面から見据えたかと思うと、突然手に持っていたグラスのビールを一気に煽り、そして、吐き出すように言った。
「分かるわ~、その気持ち」
 世界の真理が、まさかこんなところにあった。
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