踏み絵

文字数 3,493文字

 報告を終えて部屋から出ようとしたところで、塩田社長に呼び止められた。
「山野君、少し時間あるかな?」
 社長がこんな風に声をかけてくることは珍しかった。訝しく思ったが、上期の決算を報告したところだったので、社長も一息つきたいのかなと想像しながら応接用のソファの向かいに座ると、その想像通り、いつもよりにこやかな表情で社長は世間話を始めた。
 異常が常態化しつつある天候や、先日発売された新車の話題など、しばらく他愛のない話題が続いた後に、社長が個人的に応援しているゴルフの女子プロの話になった。その選手が先日優勝した試合のスポンサーが、先ほどの新車を販売している自動車メーカーだったのだ。
「ゴルフと言えば、この間の社内コンペの時に思ったんだけどさ、」
 そう切り出したとき、社長の様子に変わったところはなく、だから私が身構えることもなかった。
「調達の川上さんの代わりに来てた、ほら彼、何て名前だったっけ?」
「柴田部長ですか?」
「ああ、そうそう柴田君」
 うちの会社では四半期に一度、幹部が集まってゴルフコンペを開催するのだが、前回の開催時に、調達の川上専務がぎっくり腰で出場できず、その代理で参加したのが柴田部長だった。
「彼、ゴルフ上手だね、スコアもぶっちぎりだったし」
「そうですね。うちの会社全体でも一番じゃないでしょうか。私も一度、一緒にラウンドしたことがありますが、スコアが良いだけじゃなくて、すごくスイングがスムーズできれいでした。まあ、スイングがきれいだから、良いスコアが出るんでしょうけど。それが何か?」
 ここで社長の口調にどこか含むところを感じて、私は問いかけた。
「いや、先々月の経営会議の時にさ、発注ミスで損失が発生した件で、川上さんが報告と謝罪してたでしょ。調達のトップは川上さんなわけだから、彼の責任なのは当然なんだけど、実際にはあのミスをしでかしたのって、柴田君なんだよね。部下からは、きちんと訂正の報告が上がって来てたのに、それを見落としていた」
「そうだったんですか」
 私には初耳だった。
 短い沈黙が訪れた。それまでの会話の流れからすると、次の話題に移るのかなとも思ったが、社長はそのまま話を続けた。
「うん。しかもさ、柴田君今回のミスが初めてじゃなくて、ミスが多い。はっきり言えば、あまり仕事ができないって評判なんだよ。それで、ここだけの話、異動させようかなんて話も出ててね。本人の耳にも何らかの噂は入ってると思うし、そこで今回の一件なわけなんだけど、それが何もなかったかのような感じでコンペに出てきて、はつらつとプレーしてたもんだから・・・。あ、もちろん、仕事とプライベートは別だから良いんだよ。ただ、それで優勝して商品まで持って行くって、ねえ」
 いかにも冗談を言っているんだよという風に社長は笑顔で締めくくった。
 ただ私には、その話のどこまでが本気どこからが冗談なのかが読み辛かった。ここで同調しすぎるのも、話を打ち切ってしまうのも、どちらもよろしくないように思えて、とりあえず私は一般論に切り替えようとした。
「まあ、ゴルフに限らず、他のスポーツとか楽器でも、仕事と趣味の評価が一致しないって言う人はいますよね」
「ああ、いるいる」
 一瞬、上手く誘導できたかと思った。だが、すぐにそうじゃなかったと思い知らされた。
「でも、ゴルフは特別だと思わない?」
 社長が話を引き戻した。
「特別、ですか?」
「うん。正確には、特別感がある。実際、本人たちも特権意識を持っているのは間違いない。その証拠に、ゴルフ場で胸を張って歩いてるのは、会社の経営者じゃなくて、ハンデがシングルのゴルファーだ」
 そう言って、社長は苦笑いを浮かべたが、私にはその目が笑っていないように見えた。
「ゴルフ場って、日常の場面と比べると格式がありますし、その分余計にそう感じるのかもしれませんね」
 話題を変えないまでも、何とか会話の雰囲気を和らげようとした。ところが、社長はさらに畳みかけてきた。
「頭も使うだろ」
「戦略性が求められるスポーツですから」
 この返しが失敗だった。
「そこなんだよ。そこ、戦略なんだよ」
「戦略が・・・、どうかされましたか?」
「話を蒸し返すようだけど、戦略的なプレーが要求される競技が得意なんだったら、その戦略性を仕事にも発揮してくれって、話なんだよ。どう思う?それって、発揮できないのかな、それとも発揮してないだけなのかな?」
「それは、何と言うか、まあ、ケースバイケースでしょうか・・・」
 社長の蒸し返すという言葉が引っかかった。さっきからの話の流れを思い出しながら、私は考えた。
 社長が柴田部長のことを頭に思い浮かべて話をしているのだとすれば、ここだけの話と言っていた、人事の件が念頭にあるのかもしれない。
 社長は柴田部長のことを買っていないようだが、柴田部長は川上専務の子飼いの部下だ。川上専務は、表面上は社長と上手くやっているが、社長の座を狙っていると囁かれるくらいの実力者であり野心家だ。万が一にも、柴田部長の左遷に私が一役買ったなんて言う噂が立てば、私の社内での立場はかなりまずいものになる。
 たまたま世間話に付き合っただけで、そんなことになったら、それはとんだ巻き込まれ事故だ。
 と、ここでまた別の考えが思い浮かんだ。
 いや、待てよ。まさかとは思うが、それが社長のそもそもの狙いなんじゃないだろうな。
 社長は切れ者だ。川上専務の野心なんて、当然見透かしているに違いない。まだまだ引退を考える歳じゃない社長からすれば、自分の座を狙う川上専務の息のかかった部下はできるだけ隅に追いやって、自分の手の者を要職につけておきたいのが本音だろう。
 とは言え、いくら社長でも、表立って川上専務とやりあうというのは避けたいはずだ。そこで、自分以外の誰かをスケープゴートにして、柴田部長左遷の道筋をつけようとしているのだとしたら。そしてその哀れなスケープゴートに選ばれたのが私だったとしたら。
「ケースバイケース、まあ、そりゃそうか」
 そんな私の心の動きを知ってか知らずか、社長はこともなげに頷いて見せた。
「それでは社長もお忙しいでしょうから、私はそろそろこの辺りで、」
 ここだ、と思った。多少の無理はあったが、話に区切りがついたと言えなくもないそのタイミングで、私はソファから腰を浮かそうとした。だが、許してもらえなかった。
「で、山野君はどう思う?」
「何が、でしょうか?」
 空気椅子状態のせいか、それとも緊張のせいなのか、私は無意識にごくりとつばを飲んだ。
「二択だよ、二択」
「二択?」
「そう、二択。一方は、仕事に全てを打ち込んだ結果、社会的には十分と言って良いほど認められている。だけど、仕事以外のことに向ける時間も心の余裕もない。もう一方は、仕事は適当で、世間的な評価はそれほどでもない。だけど、その分趣味に打ち込めている」
 ここで、社長は口をつぐんだ。
 前者はもちろん社長自身、後者は柴田部長、ひいてはそのボスである川上専務のことを指していることは間違いなかった。そこまでは分かる、だが社長は何を私に求めているのだろうか?後者を糾弾することで、そして自らスケープゴートを買って出ることで、自分に対する忠誠を示せと言っている。そういうことなのか?
 つまり、これは踏み絵だ。
 うちの会社にも派閥はある。だが、私は、これまでどの派閥にも属してこなかった。誘いがあっても、のらりくらりとかわしてきた。一言で言えば、そういうのが性に合わなかったのだ。日和見だと陰口を叩かれたこともある。多少なりと、出世に影響してきたかもしれない。それでも良いと思ってやってきた。
 だが、私ももうすぐ50歳だ。これから先、大きくステップアップするチャンスなんて、そうそうないだろう。全くリスクを取らずに最後まで人生を終えられるわけでもない。しかも、私の目の前にカードを差し出しているのは、こともあろうか社長だ。
 どこかでリスクを取らないといけないのであれば、大きく張った方が良い。
 妻が買い換えたいと言っていたオーブンレンジ、娘が進学したいと言っている私立大学の学費が頭をよぎった。
 私は、腹を括った。
 社長の顔を正面から見据え、舌が痺れるような緊張感を感じながら、私は口を開いた。いや、開きかけた。だが、社長の方が一瞬早かった。
 大きなため息をついて、社長は呟いた。それは、宿命として孤独な存在にならざるを得ない、経営者の、普段は決して人に見せることがない本音がにじみ出た瞬間だった。
「ゴルフ、上手くなりたいなあ」
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