2023年のベイスボール

文字数 3,817文字

 ベイスボールという言葉を知ったのは、たまたまだった。
 澤井さんという、代理店の担当者と来年の春の展示会の打ち合わせをした後に、たまには飲みましょうという話になった。オフィスから歩いて移動して、澤井さんが行きつけだという淡路町にあるイタリアンのカウンターで席を並べると、最初はビールで乾杯して、それから赤ワインをボトルで頼んだ。
 レストランの料理はどれも美味しかったが、その中でも澤井さんがお勧めだと言ったピザは絶品だった。さすが代理店に勤めているような人は、感度高く美味しいお店を知っているなと感心させられた。
 僕が、澤井さんに感心させられたのはレストランのチョイスだけじゃなかった。食事中の会話も、澤井さんのそれは、さすが代理店勤務のレベルだった。引き出しの多さや、話し方のうまさもそうだが、澤井さんの話には、澤井さん独自の視点や思いがあった。
「ピッツァは、僕はイタリアの丼だと思ってるんです」
 もちろん、澤井さんはピザをピッツァと発音した。
「丼?どういう意味ですか?」
「ピッツァも丼も、どんな具材でも受け入れるだけのプラットフォームとして懐の広さがあるじゃないですか」
「ああ、なるほど。・・・、ちなみにですけど、それ、丼じゃなくて、おにぎりじゃ駄目ですか?」
「おにぎりは駄目です。中身の具材の多彩さは同じでも、海苔に包まれているせいで、ビジュアルの楽しみがない」
 それは握り方次第のような気もしたが、澤井さんの表情がいたって真剣なのが面白かったので、そのままにした。それからも、楽しい時間は続き、僕はピザとワインと澤井さんの話術を満喫していた。
 ベイスボールの話になったのは、2本目のボトルを開けた頃だった。
「なんか、うまく行かないんですよね。いや、別に、これが特別に駄目だって言うのもないんですけどね。ただ、なんだろう、もっと上手くできるはずなのにって思っちゃうんですよね。自己評価が高すぎるだけかもしれませんけど」
 自分でも本当に悩んでいるのかどうかも怪しいような、お酒の席での人生相談だった。唐突でもあった。それなのに澤井さんは、まるであらかじめ与えられていた台本の台詞を歌い上げるように、迷いなくそのフレーズを引き出しから取り出した。
「ああ、ベイスボールですね」
「ベイスボール?なんですか、それ?」
「三村さんは野球はご覧になられませんか?あまり野球に興味がない方に説明するのは難しいんですけど、ベイスターズって言うプロ野球のチームがあるんです。それで、ベイスボールって言うのは、そのベイスターズが展開する野球を表現、もっと言えば揶揄する表現なんです」
「揶揄?」
「まあ、そんな大げさなことでもないんですけどね」
 再び台本に書かれていたような笑みを浮かべると、澤井さんはワインを一口口に含んで続けた。
「このベイスターズって言うチームには、打つ方だと首位打者と打点王って言う、三つある主要な打撃タイトルの内の二つのタイトルホルダーがいて、投げる方でも、最多勝投手と最多奪三振王がいるんです。しかも、サイヤング賞って言うアメリカで一番の、まあ言ってみれば世界で一番の賞を数年前に獲得したピッチャーまで所属している。つまりタレントが揃っているんです。
 ところが、勝てない。守備が良くないとか、足を使わないとか理由は色々あります。でも、ベイスターズが勝てないのは、そういう具体的な何かが不足しているからというのとは違うんです。もっと抽象的な、いや、もっと本質的な課題。一言で、言ってしまえば、ベイスターズは野球が下手なんです」
「つまり、個々の条件はそれほど悪くないのに、全体としての結果が伴わないような状態のことをベイスボールって言うってことですか?」
 心の動揺を悟られないように、意識的に言葉のトーンを抑えて僕は尋ねた。
「イエスであり、ノーでもあります。基本的には、今三村さんがおっしゃられた通りなんですけど、ベイスボールという言葉にはもう一つの定義というかニュアンスがあります。それは、がっかり感です」
「がっかり感?」
「はい、さっきベイスターズが勝てないって言う話をしましたけど、数字だけを見れば、実はチームとしての成績はそれほど悪くないんです。今年もクライマックスシリーズって言う、プレーオフにも進出しています。でも何故か、ベイスターズには物足りなさを感じさせられるんです。ただ単に、もっとできるだろうって言うのだけではない、何とも説明しがたい、物足りなさを」
「それでがっかりすると」
「そう言うことです」
 そのとき僕たちの後ろをデザートプレーを運ぶウエイトレスが通った。
「あ、そういえば、言ってなかったんですけど、ここはパンナコッタもお勧めですよ。そうそう、パンナコッタと言えば・・・、」
 そして澤井さんは、旅先のローマで訪れたレストランで食べたパンナコッタとその店のウエイトレスの話を始めた。澤井さんのことだから、きっと興味深い話だったに違いない。だけどそのとき、僕の心はここにあらずで、澤井さんの話はまるで耳に入ってこなかった。
 一方、澤井さんはそんな僕の上の空状態に気が付いていなかった。関心のフォーカスが他人よりも自分自身に合いがちな人なのだ。ただ、それを差し引いても、澤井さんが一緒にお酒を飲んでいて楽しい人であることに変わりはないのだけれど。
 ところで、僕が澤井さんの話に動揺した理由、そして途中からは耳を傾けることさえできなかった理由だけど、それは簡単だ。
 僕はプロ野球のファン、しかも、ベイスターズこと横浜DeNAベイスターズの熱狂的なファンなのだ。
 もちろん、澤井さんがそんなことを知る由もなかった。知っていれば、他人に対する関心こそ低いけれど、他人に対して気は遣う澤井さんのことだから、話し方も変わってきただろう。少なくとも、野球が下手までの発言は出なかったはずだ。
 ベイスボールの話が始まった時に、僕がすぐにベイスターズのファンだと申告すればよかったのだ。だけど、澤井さんの話があまりにスムーズで、そのタイミングを逸した。
 でも別に、僕は澤井さんの話に気分を害したわけじゃなかった。純粋に、ベイスボールなんて言う言葉があるんだと知って驚いた。一日の消費パワーを示す円グラフで言えば、少なくともその四分の一くらいをベイスターズが占める(※シーズン中)僕が、そんな言葉があることを知らなかったという事実に。
 同時に、僕は澤井さんが説明してくれたその言葉の持つニュアンスに、今まで僕が漠然と感じ続けてきて言葉にできなかった思いを代弁してもらったような気がした。少し大げさかもしれないけど、本当に目の前の霧がさっと晴れるような感覚すら覚えた。
 そして僕は、僕がベイスターズを応援し続ける理由を思い知った。
 今まで僕は、マシンガン打線と呼ばれた打撃中心のチーム構成や、チームのホームタウンである横浜という街の魅力、山下公園や中華街にほど近い横浜スタジアムの雰囲気、そして何より僕がその後姿をこよなく愛するマスコットキャラクターのDBスターマンに、その理由を見出していた。
 もちろん、それらがいずれも僕を惹きつけていることは間違いない。だけど、それは本質的な理由じゃなかった。僕が、ここまでベイスターズをまるで我が事のように入れ込んで応援している理由、それは正に僕がそこに僕自身の人生を投影していたからだったのだ。
 学歴・恋愛経験・家庭・収入・会社でのキャリア、そう言った僕の人生を構成する一つ一つの要素に関して、僕に不満はない。むしろ、恵まれているとすら感じている。でも、人生トータルとしての評価となると、途端にそれは色褪せてしまう。
 しかも、それぞれの要素が5点で、それが5つあったとして、僕の人生総合ポイントは30点でもなければ、20点でもない、25点なのにだ。つまり、恵まれた人生の各構成要素の、それぞれの実力通りに組み上がった人生を僕は送ることができているということだ。
 それにも関わらず、僕の頭の中心に近い方の片隅に常にかかり続けたままの、説明がつかない靄のようながっかり感。
 それって、正に澤井さんが言うベイスボールそのものだ。つまり、ベイスターズは僕自身だ。
 僕はベイスターズを応援する。
それが、ベイスターズに僕の人生のがっかり感を打ち破ってくれることを託しているからなのか、ベイスターズとがっかり感を分かち合いたいからなのか、ベイスターズを通じてがっかり感を具体的に理解したいのからなのか、はたまた自虐的にさらなるがっかり感を求めているからなのか、そのいずれかそのいずれでもないのか、僕にはわからない。
 2023年の最後の試合も、見事なまでのベイスボールだった(ちなみに、その前の試合は、今シーズンのベイスボールの最高傑作と言っても良いような試合だった)。それは本当に、まるで、不惑という言葉を嘲笑うように40歳を過ぎてなお、混迷を深める僕の人生とのリンクをさらに増そうとしているかのように。
 ビデオ会議でマイクをミュートにしているのを忘れているのに誰からもそのことを指摘してもらえない人さながらに、僕の目の前で饒舌に、だけど無音でしゃべり続ける澤井さんの様子を、まるでどこか遠い惑星の出来事のように眺めながら、僕は心の中で語り掛けた。
 ああ、DBスターマン。僕たちは、どこへ向かっていくのだろう?
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